特別な霊場
「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」は、今回が最終回。ここでは、北陸加賀の国、那谷寺(なたでら)を紹介したいと思います。
元々、この寺を訪れたのは、別の理由によるものでした。そして、関連する資料などを見ているうちに、西国三十三所の巡礼と関わりがある寺院だということを知ることになったのです。勿論、33の札所ではなく、関連する番外の札所でもありません。従って、直接、巡礼との繋がりは無いのだと思うのですが、実は、この寺院の名前そのものに、そのわけが潜んでいたのです。
西国三十三所の巡礼は、これまでも触れてきたように、平安期に花山法皇が中興したと伝わります。那智山青岸渡寺から始まって、美濃の国の谷汲山華厳寺で満願となるこの巡礼。花山法皇は、三十三所の霊場を巡り終えたその先で、北陸のこの地へと足を運ばれてきたのです。
当時は岩屋寺と呼ばれていたこの寺院。法皇は巡礼に思いを馳せて、那智山青岸渡寺の”那”という文字と、谷汲山華厳寺の”谷”の文字を頂いて、”那谷”寺と命名されることになりました。
いつの日か、このブログで取り上げたいと思っている、『おくのほそ道』ゆかりの地。ここ那谷寺も、その中のひとつです。芭蕉の影を追い、機会を見つけてゆかりの場所を訪ねる中で、不思議にも、西国三十三所に繋がりある加賀の古刹を知ることになりました。
「山中(やまなか)の温泉いでゆに行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山法皇、三十三所の順礼をとげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍りしとぞ。・・・」
※那谷寺の門前に置かれていた『おくのほそ道』に関する説明板から。
所在地
那谷寺がある場所は、加賀の国と越前の国との境界付近、小松市那谷町というところです。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』にもあるように、山中(やまなか)温泉にほど近く、北西の柴山潟の湖畔に佇む片山津温泉もそう遠くはありません。
芭蕉は、小松の町から先ず、山中温泉に入ります。そして、数日後、少し後戻りするように、この那谷寺へと足を運ぶことになるのです。(この間の経路は少し複雑です。芭蕉の足取りの地図で確認すると、この辺りは、楕円を描いたような経路が示されています。)
※那谷寺の正面入口。
境内へ
那谷寺の門前には、立派なお店の建物があり、その傍に駐車場が置かれています。山門は、駐車場のすぐ近く。「那谷寺 境内」と刻まれた、立派な石の表示碑などには、苔むす様子が見られます。
門前の細い道を奥へと進み、山門に向かいます。
※山門。
金堂
山門を越えた先には、真っ直ぐに参道が続いています。そして、そのすぐ左には、まだ新しそうな、朱塗りが鮮やかな立派なお堂がありました。
このお堂、金堂華王殿と呼ぶそうで、南北朝の戦火で焼失し平成2年に再建されたということです。
※朱塗り鮮やかな金堂。
苔むす境内
参道は、左右の林に囲まれて、奥の方へと続いています。苔むした境内は、独特の雰囲気を醸し出し、歴史の流れを伝えています。
※苔むした境内の中を進みます。
奇岩遊仙境
参道が少し左に傾くあたりには、小さな池がありました。そして、その上部には、奇妙な姿の岩の崖地が広がります。
これは、奇岩遊仙境と呼ばれている国指定の名勝で、芭蕉も愛したところです。
「奇石さまざまに、古松植(こしょううえ)ならべて・・・」
※ 奇岩遊仙境。
本殿へ
奇岩を見ながら、小さな池に沿って進んで行くと、再び、山門が待ち構えます。小さな門ではありますが、ここが、本殿への玄関口なのでしょう。
寺院でありながら、しめ縄が架けられた門の下を潜ります。
※本殿へとつながる山門。
門の先は、岩場に沿って真っすぐ上方に石段が続いています。石段の頂上付近の右側には、由緒ありそうなお堂の姿が見えました。
このお堂こそ、那谷寺の本殿がある大悲閣だと思います。
※真っすぐ延びる石段上には本殿が望めます。
本殿(大悲閣)
石段を上り進むと、次第に大悲閣が近づきます。お寺で頂いた資料によると、「一向一揆の兵乱で荒廃しましたが、前田利常の庇護により寛永19(1642)年に再建。大悲閣・唐門・本殿の3つの重要文化財建造物を総称して〈本殿〉と呼んでいます。」とのこと。
大悲閣のお堂を見ていると、本殿と混同してしまうのですが、実は本殿は、大悲閣の内側にあるのです。そこには、本尊の千住観世音菩薩が安置されていて、参拝者は、そこで手を合わせます。
※大悲閣。
芭蕉の『おくのほそ道』を解説した、『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』(蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち))には、この大悲閣あるいは本殿を”観音堂”と呼び、この周辺の様子を次のように綴っています。
「本尊観音堂は、岩屋にて、前に舞台あり。自然石を刻ンで階をなす。荘厳すべて丹青を用いざれども、甚あざやかにして、奇麗也。」
三重の塔
本殿での参拝後、大悲閣の裏手から、境内の奥の道へと進みます。谷間の崖を巡るような道の先には、しとやかで厳かな三重の塔がありました。
※三重の塔。
ふううげつ橋と鎮守堂
境内の参道は、谷間の奥を回りこみ、大悲閣と向かい合わせの崖の地に進みます。足元には、岩場に設けられた朱塗りの橋、ふうげつ橋が架かっています。
この橋は、前田利常が計画したとのことですが、実現したのは現代になってから。従って、芭蕉達の時代に橋は無く、崖地の道を辿りながらのお堂巡りだったのだと思います。
※ふううげつ橋。
ふうげつ橋を渡った先は、鎮守堂。朱の色は少しあせた感じですが、こちらも、舞台造りの立派なお堂が置かれています。
※鎮守堂。
境内の様子
奇岩が織りなす那谷寺の境内を、今一度ご覧いただければと思います。
「奇石さまざまに、古松植ならべて、萱(かや)ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
石山の 石より白し 秋の風 」(『おくのほそ道』)
※境内の様子。
芭蕉の句碑
芭蕉の俳句は、”石山寺(西国三十三所の第13番札所)の石よりも白い石がある那谷寺に、白風と呼ばれる秋の風が吹き渡っている”、との情景を詠んだものだと言われています。
石山寺は、芭蕉庵と呼ばれる庵があるように、芭蕉とは縁の深いお寺です。その石山寺と対比した那谷寺の境内は、芭蕉にとって、一入の愛着を感じた場所だったのかも知れません。
※芭蕉の句碑。
静かに佇む境内を歩きながら帰路の途へ。
西国三十三所の満願を終え、あるいは、花山法皇の心の内も感じつつ、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」のシリーズを、このあたりで終えたいと思います。