旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]30・・・徳次郎宿

 3つの宿場

 

 宇都宮の宿場に続く徳次郎宿(とくじらじゅく)。ここには、下・中・上の3つの宿場町がありました。それぞれの宿場町は、ある程度、独立していたようですが、互いに補完し、協力し合う関係だったのだと思います。甲州道中の宿場町で見られたような、合宿(ごうしゅく)の形態がとられていたのかも知れません。

 宇都宮から日光へと向かう時、先ず踏み入れるのが、下徳次郎の宿場です。そして、次が中徳次郎宿、今もこの地域の中心地になるようです。最後の上徳次郎の宿場町は、さらに、丘陵地を奥へと進み、山が迫る地域へと近づかなければなりません。

 次第に寂しくなる道筋は、都市から離れ、農村の風景が広がります。

 

 

 徳次郎へ

 街道は、やがて、山王団地入口の交差点を迎えます。この辺り、富屋と呼ばれる地域のようで、「栃木県立富屋特別支援学校」と記された、立派な案内板が置かれています。

 並木は、途切れがちではありますが、落葉樹が植えられて、徳次郎の宿場町へと導かれるような印象です。

 

※山王団地入口交差点。

 

 国道119号線の街道は、一旦途切れた並木道から、再び並木の道に入ります。歩くところは、これまでと同様に、堤に設けられた歩道です。

 辺りは、農地が広がって、山並みが近づきます。

 

※徳次郎宿に向かう街道。

 

 徳次郎

 落葉樹の並木道をしばらく歩くと、「徳次郎保育園」など、”徳次郎”の冠を持つ施設などの標識がありました。

 宇都宮の市街地からは、もう、随分歩いたような気がします。ようやく、待ちわびた地名に触れて、微かな喜びを感じたことを覚えています。

 

※徳次郎保育園などの標識と徳次郎に入った街道。

 

 標識を過ぎた先の右側には、宇都宮市の富屋地区市民センターや富屋小学校などがありました。先ほどの、徳次郎保育園も、これらの敷地近くにあるようです。

 この辺り、元は、富屋村大字徳次郎という地域だそうで、”富屋”と”徳次郎”が、公的な施設の呼び名として混在している状況です。

 

 『とくじら』の復活

 市民センター前を歩いていると、歩道際のフェンスのところに、下の写真のような横断幕がありました。

 これを見ると、令和3年から、徳次郎宿(とくじらじゅく)と同じ読みの町名に変更されたということで、何か、奇妙な気持ちになりました。調べると、その前は、”とくじろうまち”であったよう。

 地域の人の願いもあって、かつての正しい読み方の”とくじらまち”に呼称が変わったということです。

 

※町名変更の横断幕。

 

 ”とくじら”

 ここで、徳次郎という地名について、少し触れておきたいと思います。そもそも、この呼び名、人の名前が由来のような気がします。特に、徳次郎にあった城、徳次郎城を築いたのは、新田徳次郎という人です。

 ところが、『ちゃんと歩ける日光街道』の解説では、城ができる遥か昔、「宝亀九年(778)日光二荒山より智賀津(都?)明神を勧進した際、日光山の「久次郎(くじら)」に対して外なるところから「外久次郎(そとくじら)」と称し「徳次郎(とくじら)」と転訛した」と書かれています。

 日光を治めた久次郎氏の領地の日光「久次郎」。その外の地域とは、何となく腑に落ちる説明にも思えます。ただ、「徳次郎」の漢字については、単なる転訛と言うよりは、やはり、新田徳次郎にその根拠があるような気がします。

 何れにしても、独特の響きを持ったこの地名。愛着を感じてしまいます。

 

※下徳次郎宿に入った街道。

 

 下徳次郎宿

 街道は、富屋小学校の辺りから、下徳次郎の宿場町になるようです。ただ、道沿いは、民家が並び、宿場町の面影はありません。ところどころに、石碑などもありますが、町並みは大きくその姿を変貌させているのです。

 

※下徳次郎宿の様子。

 

 仮本陣跡

 かつての宿場町を歩いていると、民家の前に、「下徳次郎跡」と表示された説明板がありました。

 説明書きには、ここは、徳次郎の3つの宿場の南端で、宿場の長さは349m、家数は30軒ほど、宿内に、仮本陣と仮脇本陣が各1軒あったと書かれています。そして、この説明板が置かれた場所が仮本陣跡だということで、立派な屋敷が構えていた様子です。

 

※下徳次郎宿の説明板。

 中徳次郎宿

 街道は、やがて、徳次郎交差点に入ります。この交差点、街道である国道119号線と、東西をつないでいる国道293号線が交わるところ。ここを左に向かった先に、日光道の徳次郎インターチェンジがあるようです。

 そして、この交差点辺りから、中徳次郎の宿場町。2つ目の宿場町に入ります。

 

※徳次郎交差点。

 中徳次郎の宿場町も、往時の姿はありません。道沿いは、民家が並び、その奥には農地が広がります。

 街道を歩いていると、今度は、「中徳次郎跡」と書かれた説明板がありました。「3宿の中では中程に位置し、宿の長さは310m、家数は50軒ほどであった。宿内には問屋場兼本陣1軒、脇本陣1軒、高札場1カ所が設けられていた。」とのこと。

 

※中徳次郎宿跡の説明板。

 智賀都神社

 中徳次郎の宿場町をさらに進むと、やがて、立派な神社の境内です。鳥居の脇に建てられた石柱には、「智賀都神社」と彫られています。

 この神社、先ほども少し触れた、徳次郎の名に由来する、由緒ある神社です。この地域の人により、長い間、守られてきたのでしょう。

 

※智賀都神社の前を通る街道。

 

 私たちは、中徳次郎の宿場を終えて、まだ少し先にある、上徳次郎宿へと向かいます。