木沢の追分
芭蕉と共に旅をした、弟子の曾良が書き留めた『曾良旅日記』。そこには、間々田(ままだ)以降の行程を、次のように記しています。
「廿九日、辰ノ上尅マゝダヲ出。小山へ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。小山ヨリ飯塚へ一リ半。木沢ト云所ヨリ左へ切ル。此間姿川越ル。」
これを読むと、2人は、間々田の宿場を朝の8時前に出発し、小山宿へと向かったことが分かります。途中、小山氏の屋敷跡を右に見たことは、前回のブログで触れました。
そして、小山宿から飯塚へ。この間の道筋は、小山宿から、木沢(今は喜沢と呼ばれています)まで行き、そこを左に折れて、日光西街道に入ります(日光道中は直進ですが、木沢の追分で左手の日光西街道に向かったことになります)。そして、その先で姿川を越えた後、飯塚の宿場に向かったというのです。
この木沢、今は、喜沢の交差点があるところ。ここが、日光道中と日光西街道の分岐点、いわゆる、木沢の追分です。芭蕉と曾良は、ここを左に進路を変えて、日光西街道の方向へ。
千住から、2人の影を追いながら、小山まで来た私たち。喜沢の交差点で、一旦別れを告げることになりました。
※日光道中と日光西街道。小山の先、日光道中は新田宿になりますが、日光西街道は飯塚宿であることが分かります。(途中の観光施設で頂いた資料から。)
小山宿
小山の駅前で小休止をした後で、再び、日光道中が通過する、駅前上町の交差点に戻ります。下の写真の標識に掲げられた小山脇本陣。この史跡の前は、休憩前に、既に通ったところです。私たちは、この交差点を、脇本陣とは反対の、興法寺方面へと向かいます。
道沿いには、高層のマンションが建ち並び、この地域の、中心都市の様相です。
※駅前上町交差点。
ビルが並ぶ道筋は、まだ、小山宿が続きます。ところどころに、「小山宿」と記されたバナーなども掲げられ、宿場の名残りを伝えています。
※小山宿の北部地域。
郊外へ
ビル街を通過した街道は、やがて、旧市街地の街並みに変わります。広かった歩道の道も狭まって、縁石の内側の狭い道を進みます。
※本郷と呼ばれる地域を進む街道。
やがて、小山の宿場を終えることになりますが、どの辺りが境界なのか、はっきりとは分かりません。いつの間にか空気は変わり、小山市の郊外へと向かいます。
しばらくすると、小山駅と群馬県の高崎駅とをつないでいる、JR両毛線の踏切です。
踏切には、「第一奥州街道踏切」と表示されて、珍しく、「奥州街道」という名を目にすることになりました。*1
※JR両毛線の踏切を通る街道。
喜沢
街道は、やがて、喜沢の地域に入ります。住宅やお店などが、混在した道筋は、喜沢南交差点を通り過ぎると、次第に、落ち着いた雰囲気の住宅地に変わります。敷地の広い住宅を眺めながら、一路北へと進みます。
緩やかに、蛇行しながら進む道。旧道の道の流れは、失われることはありません。
※喜沢南交差点。
喜沢(木沢)追分
しばらくすると、「喜沢分岐点」と表示された交差点を迎えます。直前の標識は、直進が、宇都宮・下野で、右方向は新4号国道です。そして、左方向が、壬生(みぶ)へと向かう道。この道が、かつての日光西街道(日光壬生道とも呼ばれています)という訳です。
冒頭で触れたとおり、芭蕉と曾良は、ここで左に進路を変えて、飯塚へ、そして、壬生方面へと向かうことになるのです。
2人の目的地は、飯塚から壬生へと向かう日光西街道の西にある、「室の八島(むろのやしま)」と呼ばれる神社。『おくのほそ道』の本文にも、その地のことが書かれています。*2
2人は、その後、鹿沼を経て、日光道中との合流点、今市へ。そして、日光の東照宮へと、参詣の道を刻みます。
※喜沢分岐点の交差点。かつては木沢追分でした。
喜沢の交差点の北西隅には、幾つかの石碑などが置かれています。この何れかが、追分の石碑なのだと思うのですが、近くから見ていないため、よく分かりません。
私たちは、石碑を左に認めながら、写真の右方向へと向かいます。ちなみに、芭蕉たちは、写真の奥へと向かう街道へ。ここで、奥の細道の旅をした、2人の姿を見送ります。
※木沢の追分。
旧道へ
街道は、喜沢分岐点を過ぎた後、間もなく、斜め右方向の旧道に入ります。ここは、これまでの県道を、道なりに進んでしまいがち。地図をしっかり確認し、旧来の街道を進みます。
旧道は、いわゆる、里道のような細い道。古くからの集落のような道筋を、これからしばらく歩きます。
次に目指す宿場は、新田宿。3か所ある、小山市の最後の宿場へと向かいます。
※旧道に入った街道。