旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]20・・・間々田宿(中間地点)

 日光道中の中間点

 

 日光道中の歩き旅、今回から、後半の行程に入ります。前回のブログで綴ったように、前半は、江戸日本橋から間々田まで、昨年(2022年)の10月に、6日をかけて歩きつないだ旅でした。

 今回からの後半は、そのおよそ1月後。昨年の11月に、5日間歩き続けて、日光に辿り着いた旅の様子をお伝えしたいと思います。

 先ず、後半のスタートは、前回旅を終えた間々田宿。この宿場、日本橋と日光の中間地点にあたります。

 

 

 間々田宿(ままだじゅく)

 間々田の宿場に舞い戻った私たち。早速、街道を北に向けて進みます。

 この間々田宿、奥の細道の旅に出た、芭蕉曾良が、旅の第2泊目に宿をとった宿場です。宿場町を歩きながら、2人はどの辺りで宿泊したのか、想像を膨らませながら歩きます。

 

 間々田宿は、先の宿場の野木宿から、6.5キロの地点にあって、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は50軒ありました。

 そこそこ規模が大きかった宿場町。ところが、今はもう、その面影はありません。

 

※間々田宿を通る街道。

 

 車屋美術館

 かつての宿場を歩いていると、右前方に、「小山市車屋美術館」と記された看板と、立派な蔵のような建物が見えました。

 

車屋美術館の建物。

 

 この美術館、明治期の歴史ある建物だということです。車屋と言う名前から、きっと、人力車の工房の名残りかと思いきや、肥料業を営まれていた方の、由緒ある屋敷とか。

 見事な佇まいに感心しながら、間々田の町を歩きます。

 

車屋美術館の入口。

 

 逢いの榎

 しばらくすると、今度は、歩道際に、「逢いの榎(あいのえのき)」と記された表示板や石碑などが置かれている一角がありました。

 表示板の「逢いの榎」のすぐ下には、「(間の榎)」も併記され、二通りの意味があるようです。

 石碑の傍の説明板には、

 

 「間々田宿は、・・・江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(七十二キロ)の中間点に位置していました。」

 「間々田宿の入口にあった榎は・・・街道を通った例幣使*1が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。」

 「この榎は、いつの頃からか「逢いの榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。」

 

 と書かれています。

 

※逢いの榎。

 

 間々田宿と乙女宿

 ここで少し、注釈が必要です。上に記した説明板には、「間々田宿の入口にあった榎」、とのことですが、実際には、この場所は、間々田宿の真ん中辺り。どうして、「間々田宿の入口」なのか?

 この答えは、間々田の駅前に掲げられた、「歴史の案内板」にありました。たまたま、目にしたこの説明書きから、間々田宿の変遷を知ることができるとは、まさに偶然のことでした。

 

 「江戸及び日光からほぼ十八里の中間に位置する間々田宿と乙女宿の境に植えられた「間のエノキ」がいつのまにか「逢いのエノキ」となり男女の縁を結ぶシンボルとなりました。」

 

 このことから、元々この地には、乙女宿と間々田宿の隣り合わせの2宿があって、いつの日か、2宿は合体したようです。地図を見ても、この榎を境に、南は乙女の地域、北は間々田という具合。

 乙女と間々田、隣同士の仲の良い町だったことでしょう。

 

 

※間々田宿の様子。街道は、今は国道4号線。

 

 間々田交差点

 間々田の宿場を、さらに北へと進みます。やがて、街道は、間々田の交差点。この辺り、ちょっとした商店街の様相です。おそらく、間々田の町の中心地でもあるのでしょう。地図を見ると、本陣跡もこの辺りにあるようです。

 私たちが歩いた時は、概ねシャッターが締められて、休業日の状態です。曜日にもよるのでしょうが、賑わう時もあるのだと思います。

 

※間々田交差点の辺り。

 

 本陣跡

 間々田の交差点を通り過ぎたすぐ先には、小さな案内板が見えました。その表示には、「間々田宿本陣跡」と書かれています。

 確かに、交差点の辺りには、間々田宿の本陣が構えていたということです。 

 

※本陣跡を示す説明板。

 

 八幡宮

 宿場町をさらに進むと、間々田四丁目の交差点。その左奥には、間々田八幡宮の小さな鳥居が見えました。

 八幡宮の境内は、鳥居から少し奥に入ったところ。そこには、芭蕉の句碑もあるようですが、私たちは、先の行程を急ぎます。

 おそらく、芭蕉曾良は、旅の途中で、この八幡宮を訪れて、これからの安全を祈願されたことでしょう。旅の安全を神仏に祈る心は、今では想像もできないほどの、深い思い入れがあったのだと思います。

 

※間々田四丁目交差点。

 

 小山宿へ

 街道は、やがて、間々田の宿場を後にして、次の宿場の小山宿へと向かいます。

 

※間々田の宿場を後にして小山へと向かう街道。

 

*1:「れいへいし」と読みます。日光道中を歩いていると、この名前をよく目にします。Wikipediaによると、例幣使とは、「天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のこと」。今も、”日光例幣使街道”と名付けれられた旧道があるようですが、その道は、中山道倉賀野宿から東進し、日光西街道の楡木宿に入るのです。つまり、京都から中山道を歩いて上州の倉賀野へ、そこから、下野の楡木に入り、日光の今市へ。そこで、日光道中と合流し、最後は、日光道中東照宮へと向かうのです。この例幣使、捧げものを日光に届けた後は、江戸に回って将軍に対面してから京都に帰ったとされ、日光からの帰路で、間々田を通ることになったのだと思います。