旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]6・・・草加宿へ

 草加市

 

 埼玉県の街道は、草加市から始まります。草加と言えば、草加煎餅が余りにも有名で、煎餅こそが、この街の知名度を上げているようにも思えます。草加煎餅の存在以外、何も知らない私たち。どのような街なのか、期待を持って歩きます。

 そう言えば、芭蕉曾良が、旅の初日に立ち寄って旅装束を整えたのが、この草加宿だったのです。

 「若生(もしいき)て帰らばと定(さだめ)なき頼(たのみ)の末をかけ、其日(そのひ)漸う(やうやう)草加と云(いふ)宿にたどり着にけり。」

 早朝に、江戸深川を出発し、昼前に、千住の地で舟を下り、そこから草加の宿場まで。芭蕉にとっては、生きて旅を終えられるのかと、案じながらの初日の旅だった様子です。

 その当時、今歩く私たちには、想像もできないような、厳しい旅が待ち受けていたのでしょう。

 

 

 旧道

 街道は、埼玉県との境界付近で、少しだけ、湾曲した旧道を進みます。この道は、車道自体が、旧道の名残りのように感じる一方、余りにも広い歩道は、少し異様に映ります。

 アパートや住宅が混み合う街は、通学時には、たくさんの子供たちが利用するためなのかも知れません。

 

※足立区北部を流れる旧道。

 

 草加市

 旧道は、やがて、元の道路に合流し、県境へと近づきます。道沿いには、大きなマンションが並ぶ中、その先で、小さな事業所なども点在する地域に入ります。

 

※マンションが並ぶ街道筋。

 街道は、やがて、毛長川(けながかわ)橋前の交差点。ここで、左方向の、毛長橋へとは向かわずに、国道4号線の高架下を潜り抜け、この先の県道と交差する、T字路へと進みます。

 

※毛長橋前交差点。

 

 T字路を左に折れてしばらくすると、毛長川に架けられた水神橋。街道は、この先で、いよいよ、埼玉県草加市に入ります。

 

※左、毛長川に架かる水神橋。右、草加市へ。

 県道

 草加市に入った街道は、県道伝いに北に向けて進みます。この辺り、谷塚(やつか)と呼ばれる地域です。

 途中、谷塚の交差点を通り過ぎると、その先の左手が、東武線の谷塚駅。道沿いは、マンションなども並んでいます。

 

谷塚交差点。

 

 谷塚駅のすぐ東を通る県道は、次第に、静かな街へと変わります。ところどころに、お店などもありますが、大半は、住宅やアパートなどが軒を連ねる地域です。

 

※吉町五丁目交差点。

 草加煎餅

 しばらくの間、県道の歩道を歩いていると、突然、草加煎餅と書かれた看板が見えました。何気ない看板ですが、草加の地で初めて見かけた名物の看板です。何故か少し、微笑ましく感じたことを覚えています。

 

草加煎餅の看板が掲げられたお店。

 草加宿

 県道はこの先で、Y字状の交差点を迎えます。この交差点、右方向が県道で、日光道中の旧道は左です。

 交差点の分岐のところをよく見ると、「今様草加宿」と記された、ベージュ色の石柱がありました。地図を確認したところ、この辺りから、草加の宿場が始まっていた様子です。

 私たちは、ここから先しばらくは、旧道伝いに、かつての宿場の町を歩きます。

 

※県道と旧道との分岐点。旧道は、宿場町があったところです。

 

 草加宿は、江戸から数えて、2番目の宿場町。前の宿場の千住宿から、およそ10キロのところです。

 この宿場、かつては、本陣と脇本陣が各1軒。旅籠は、67軒ありました。資料によると、明治初頭の大火のために、宿場町の一帯は、灰燼に帰してしまったということです。

 旧道が、往時の流れを残す中、宿場町の町並みが姿を止めていないのは、何とも寂しい限りです。ところどころに見受けられる、祠などを目にとめて、往時の町を偲びます。

 

※かつての草加宿の通り。建築工事は、草加市役所のようです。

 

 駅近く

 旧道は、やがて、少し大きな交差点に入ります。左右の道は、草加駅と駅東の街中を結ぶ道。この交差点の左手奥が、東武草加駅になるようです。

 街道沿いにも、お店の数が増える中、さらに北へと進みます。

 

草加駅のすぐ東を通る街道。

 

 藤城家住宅

 草加駅近くの交差点を過ぎた後、しばらくすると、右方向に、歴史ある建物が見えました。奥にも蔵などがあるようで、この一角は、少し趣を感じます。

 この建物は、藤城家住宅と呼ばれています。明治期の建物だということで、宿場町の名残りではありません。

 

※藤城家住宅。

 

 本陣跡

 さらに街道を北進すると、今度は左手に、「草加宿 大川本陣跡」の石標です。今は、本陣の姿はないものの、ここには確かに、本陣の見事な屋敷が広がっていたのでしょう。

 

※大川本陣跡。

 

 大川本陣跡の、すぐ先の右手には、再び、「草加宿 清水本陣跡」の石標です。ひとつしかなかったはずの本陣が、2か所あるのはどうしてか。石碑の傍の説明書きには、「大川本陣 ~宝暦年間」「清水本陣 宝暦年間~明治初頭」との記載です。

 なるほど、当初は大川本陣だったのが、宝暦の時代(1751~1764)に、清水本陣がその役割を引き継ぐことになったのでしょう。

 石碑の左の一行にも、その年代が刻まれていたのです。

 

※清水本陣跡。

 

 今様本陣

 街道は、やがて、宿場町の北のはずれに近づきます。この辺りには、古い民家が散らばる中で、往時の風情を意識した、新しい建物なども見られます。

 下の写真の奥に見える建物は、「今様本陣」と呼ばれています。コロナ禍で、ひっそりとした状態でしたが、平時には、様々なイベントや街づくりの会議などが行われているようです。

 今後は、この建物を拠点として、魅力ある街づくりが進められていくのでしょう。

 

草加宿の北のはずれ。