旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]10・・・粕壁宿から杉戸宿へ

 曾良旅日記

 

 松尾芭蕉曾良(そら)が旅した、『おくのほそ道』の本文では、草加に続いて綴られているのは、今の栃木県栃木市にある、室の八島(むろのやしま)と呼ばれる神社。先の草加の宿場から、この室の八島まで、随分と距離が離れています。この間の長い道のりを、2人はどのように旅をしたのでしょう。本文だけでは知るよしもありません。

 ところが、この間の空白の行程は、曾良自身が書き留めた、曾良旅日記』の冒頭あたりに、わずかながら、書き留められているのです。その一文、「二十七日夜*1、カスカベに泊る。江戸より九里余。」というものです。

 旅の初日に、2人が宿をとったのは、これから向かう粕壁宿。芭蕉たちは、昼前に、千住の宿場近くで舟を降り、草加、越ケ谷の宿場町を経由してこの地まで、実に28キロの道のりを、半日程度で歩きとおしてきたのです。

 芭蕉曾良が一夜を明かした粕壁宿は、もう間もなくのところです。

 

 

 粕壁宿へ

 国道は、東武線の一ノ割駅入口交差点を越えた後、間もなく、緑町交差点に入ります。道沿いは、郊外型の店舗が増えて、人の通りも一気に増してきた感じです。

 

※緑町交差点。

 

 その後、お店の数は減少し、住宅が目立つ国道を、さらに北に向かって進みます。しばらくすると、道路標識が掲げられた、一宮歩道橋。

 変形した、4叉路の交差点を示す標識は、直進が小山・古河(こが)方面への国道で、斜め左は、宮代に向かう県道の表示です。この宮代、粕壁宿の次の宿場、杉戸宿がある杉戸町の隣町。街道は、確かに県道の方向です。

 私たちはこの先で、国道から一旦離れ、県道に進みます。

 

春日部市一宮辺りを通る国道。

 

 国道から左にそれて県道に入っていくと、幾つもの大きなマンションが目にとまります。

 道沿いは、整然とした街並みで、清潔感を感じます。

 

※県道方向に入った街道。

 

 粕壁宿

 地図を見て確認すると、どうも、この県道の入り口の辺りから、粕壁宿は始まっていた様子です。今は、どこを見ても、宿場町の面影はありません。再開発されたような街並みが、真っ直ぐに続いています。

 それでも、美しく整備された歩道には、ところどころに、標柱が置かれています。この標柱、かつての宿場施設の位置を示すもの。確かにここが、宿場町であったことを伝え残しているのです。

 

※粕壁宿があった通りと標柱。

 

 粕壁宿は、先の宿場の越ヶ谷宿から、およそ10キロ離れています。かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は45軒ありました。街道のすぐ右奥には、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)*2が流れていて、水運を利用した交易も、盛んだったということです。

 街道を進んでいくと、右手には、白壁の趣ある建物が見えました。新しく整備された街並みにも、このような建物が残されているのかと、少しホッとした気持ちになりました。

 

※宿場町に残る白壁の建物。

 

 公園橋西交差点

 やがて街道は、公園橋西交差点を迎えます。ここを左に向かった先が、東武線の春日部駅。街道は、直進ですが、この日の街道歩きは、この位置で終了です。

 私たちは、春日部駅から、宿泊地へと向かいます。

 

※公園橋西交差点。街道は、高層マンションが見える直進方向です。

 

 翌日

 翌朝は、再び、公園橋西交差点から街道歩きを始めます。この日は、前日とは打って変わって、快晴の日和です。気持ち良い、朝の空気を感じながら、次の宿場の杉戸宿へと向かいます。

 街道は、なお、粕壁の宿場町。整備された街並みが続きます。

 

※粕壁宿の表示がある整備された街道。

 

 永嶋庄兵衛商店

 しばらくすると、右側に、木造の趣ある建物がありました。掲げられた看板は、どこか、近代的な感覚のもの。そこには、「永嶋庄兵衛商店」と書かれています。

 このお店、かなり歴史がある、米の問屋さんだということです。

 

※粕壁の宿場町は続きます。

 大落古利根川

 街道は、その先で、高層のマンションがある、新町橋西交差点に至ります。ここを右に折れた街道は、水運で栄えていた、大落古利根川へと近づきます。

 

新町橋西交差点。

 

 街道が大落古利根川を渡る橋は、新町橋と呼ばれています。橋の手前に置かれている標柱に、小さな絵があるように、ここには、古くから、木の橋が架けられていたようです。

 私たちは、橋を越え、粕壁宿から離れます。

 

新町橋と、かつての木橋が描かれた標柱。

 

 杉戸町

 新町橋を越えたすぐ先は、三叉路の交差点。街道は、ここを左の方向へ。落ち着いた雰囲気の街並みを眺めながら、杉戸の町を目指します。

 

新町橋を渡り、三叉路を左に折れた辺り。

 

 途中、街道右の道端に、「史蹟小渕一里塚跡」の石標がありました。今は、塚の姿は無いものの、かつてはここに、一里塚が築かれていたのでしょう。江戸から9里目の一里塚、小渕の一里塚を確認し、さらに北へと向かいます。

 

※小渕一里塚の石標。

 

 追分の道標

 街道は、緩やかな弧を描きながら続きます。道沿いは住宅が軒を連ねて、静かな空気が流れています。

 しばらくすると、Y字状の、少し変わった三叉路を迎えます。道の別れ際の正面には、追分の道標です。よく判別できない文字ですが、確かに何かが書かれています。

 資料を見ると、2つある道標のうち、大きな方は、”左日光道”とあるようです。小さい方は、”左方あふしう(奥州)道、右方せきやと(関宿)道”。歴史ある街道の追分が、今もそのまま残っています。

 私たちが進む道は、左手の方向です。この先で、街道は、国道4号線と合流し、杉戸町に入ります。

 

※左、緩やかに弧を描く街道。右、追分。日光道中は左です。

 

*1:旧暦の3月27日。陽暦では5月前半にあたるようです。

*2:この川の名は、少し変わっています。Wikipediaによると、「埼玉県を流れる一級河川利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾に注いでいた。」と書かれています。