大月市の中心地にある、大月宿と駒橋宿。隣り合う、2つの宿場を過ぎた後、次に向かう宿場町は、猿橋です。
猿橋とは、少し変わった地名だと、不思議に思っていたところ、どうもそこには、”猿橋”と名付けられた、有名な木の橋があるようです。初めて耳にするこの橋は、由緒ある橋のよう。幸いにも、甲州道中の道筋は、その橋の上を通っています。
街道の一部でもある”猿橋”を楽しみに、大月市の東部へと向かいます。
駒橋
駒橋の宿場町を出た後も、駒橋の集落は続きます。旧道は、桂川の護岸のような斜面を通り、川の流れとあわせるように、東へと下ります。
街道の左には、発電所の建屋などが見下ろせて、時折、桂川もその姿を現します。一方で、右側は住宅地。石垣などでかさ上げされた敷地の上に、比較的新しい住宅が並びます。
※駒橋の集落を進む街道。左手下には発電所があるようです。
猿橋へ
やがて、街道は、集落内を通り過ぎ、国道20号線に入ります。この辺りから、猿橋の宿場町となるのでしょうか。今は、辺りを見ても、宿場町の面影は、全く見ることができません。
直前の、駒橋の宿場町から1.5Km。私たちは、国道を少し歩いて、この日の街道歩きを終了です。国道に架けられた、歩道橋下を右折して、突き当たりにある、JR中央本線の猿橋駅に向かいます。
行程
昨年*13月、甲州道中の起点である、下諏訪の宿場から歩き始めたこの旅は、今回が2回目の行程です。初回から1か月後の翌4月、韮崎からここ猿橋まで、およそ60Kmの道のりを、進むことができました。
名所である”猿橋”は、まだ少し先の方。この時の訪問はお預けです。
1年後
世の中は、なかなか落ち着く時が無く、いつの間にか1年が経ちました。もう、そろそろ、歩き時かと一念発起。今年*2の4月に、再び甲斐の国に向かうことになりました。
今回は、わずか2日半の行程で、猿橋から、神奈川の相模湖辺りを目指します。
猿橋宿
私たちは、早速、国道20号線に架けられた、歩道橋に向かいます。この辺りは、既に猿橋の宿場だったところです。ただ、残念ながら、かつての宿場町の面影はありません。
少し進むと、左手に、三嶋神社の社です。社と、その脇にある石碑などの存在だけが、わずかに、歴史の音色を奏でています。
猿橋宿は、本陣1軒,脇本陣2軒、問屋1軒が設置され、旅籠は10軒だったということです。甲州道中の宿場町の規模としては、平均的な大きさでした。
三嶋神社を通り過ぎると、宮下橋南詰の交差点。左には、桂川に架けられた宮下橋が見渡せます。
※三嶋神社(左)と宮下橋南詰交差点。
殿上
交差点を越えた後、街道の左には、桂川の堤防の雑木林が続きます。町並は、右側のみで、小規模の事業所や、民家などが続きます。
この辺りは、猿橋の殿上(とのうえ)という集落です。バス停には、「殿上下宿」との表示がありました。
下宿と呼ぶからには、この辺りまで、猿橋の宿場町が続いていたのかも知れません。
※殿上の集落を進む街道。
猿橋へ
国道沿いの街道は、やがて、次の集落に入ります。通りには、お店なども幾つかあって、わずかながらも、賑わいを感じるようなところです。
この辺りが、猿橋の、町の中心地なのかも知れません。有名な”猿橋”も、もう間もなくの様子です。
※左、猿橋の町の中心地へと近づきます。右、”猿橋”の案内標識が現れました。
名勝猿橋
やがて国道は、新猿橋西の交差点を迎えます。街道は、ここを左に折れて、一旦国道から離れます。
この先、道筋には、何軒かの土産物のお店が並び、ちょっとした観光地の様相です。実際に、”猿橋”への導入口には、「歓迎 名勝猿橋」と表示された、立派なアーチがありました。
※猿橋への導入口。
名勝の”猿橋”へと向かう道そのものも、甲州道中の一部です。街道は、この先で”猿橋”を渡ることになるのです。
アーチを潜ると、砂利敷のスペースが広がります。そして、正面が”猿橋”です。木で組まれたこの橋は、大月市の観光資料に、「日本三奇橋のひとつ」と、紹介されている名所です。
※猿橋の様子。
日本三奇橋
この写真では、ただの木橋のようですが、橋には橋脚はありません。この橋は、特殊な工法でできた橋。
市が発行してる資料には、「両岸から張り出した四層のはね木で支えられている珍しい構造の橋」との説明書きがありました。このはね木、写真に撮れていないのが残念です。ここは、大月市の資料を拝借し、皆様にご覧頂きたいと思います。
※橋げたを支えている「はね木」が見事です。
ちなみに、三奇橋には、諸説があるとのことですが、岩国の錦帯橋とこの猿橋は、揺るぎない地位を誇っています。
あとのひとつは、黒部の愛本橋、四国祖谷(いや)のかずら橋、木曽の桟(かけはし)などの名前が上げられているようです。
猿橋の由来
”猿橋”の由来については、橋のたもとの説明板に、その概要が書かれています。要約すると、伝説的には、推古天皇の頃(600年頃)に百済の人がここに来た時、猿王が藤の蔓(つる)をよじって断崖を渡るのを見て橋を造ったのだとか。
史実からは、聖護院門跡の道興が1486年にここを訪れた時、既に”猿橋”は存在し、橋に関する詩文を残されているということです。
以下は、説明書きの一部です。
「江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事にて九回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行われてきました。この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。」
私たちは、名勝”猿橋”をゆっくりと楽しんで、次の宿場の鳥沢へと向かいます。
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