甲州の温泉地として有名な石和(いさわ)の町は、かつては、甲州道中の宿場町だったところです。ただ、温泉は、昭和の中頃あたりに湧き出したということで、それほど歴史はありません。石和の地が、宿場町で賑わった時代には、湯けむりは上がっていなかったということです。
温泉と宿場町。何となく、情緒を感じる組み合わせでありながら、両立をすることはなく、今日を迎えています。私たちは、往時の町を偲びつつ、温泉町を堪能し、歩き旅を続けます。
石和宿へ
街道は、甲府市の城東通りを、さらに東へと進みます。正面の遠方には、山並みも広がって、次第に、甲府盆地の東部へと近づいてきた印象です。
道路沿いには、立派な塀と門構えの旧家などが見られるものの、道沿いは、概ね通常の住宅地が続きます。
※石和に向かう街道。右には、立派な旧家です。
平等橋と富士山
しばらくすると、平等川に架けられた、平等橋を渡ります。橋の手前で右手を見ると、遠方には、山際から頭を出した富士山です。わずかに、頂だけをのぞかせた名峰は、恥じらってでもいるような、控えめな姿に見えました。
※左、平等橋。右、橋の手前から望む富士山。
平等橋を越えた先で、街道は、もう一つ、甲運橋を渡ります。この橋の辺りから、石和の町になるようです。これまでの、甲府市と別れを告げて、街道は、笛吹市(ふえふきし)に入ります。
私たちの街道歩きは、この日は、ここで一区切り。韮崎の宿場から、19Kmの行程を終え、石和の湯宿で疲れた身体を癒します。
※甲運橋の手前。この辺りから笛吹市に入ります。
翌日再び、石和の町の入り口付近に舞い戻り、歩き旅を続けます。
しばらくすると、石和温泉入口の交差点。ここを左折し、数百メートル北に向かうと、JR中央本線の石和温泉駅に行き着きます。石和温泉の中心地は、駅に向かうこの道の辺りです。
昭和の時代に掘り当てられた、新しい温泉を擁する町は、歴史ある温泉街の様相と少し趣が異なります。町中に、幾つかの湯宿が散らばって、何となく、一体感がありません。それぞれの温泉宿が、独自に、その存在を主張しているような町並みです。
街道は、石和温泉入口交差点を曲がらずに、真っ直ぐに東へと向かいます。
※石和温泉入口交差点。
石和宿(いさわじゅく)
石和の宿場の中心地は、おそらく、この交差点辺りからだと思います。ただ、今は、往時の面影を感じるところはありません。道路は広々とした幹線道路。道沿いの町並みも新しい建物が目立ちます。わずかに、石和八幡宮の赤い鳥居が、歴史の名残を伝えています。
かつての石和の宿場には、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒が配置され、旅籠の数は18軒。韮崎や甲府柳町の宿場の規模と、ほぼ同じぐらいの大きさだったということです。
※今の石和宿。左は石和八幡宮の鳥居。
石和の地名
石和は、温泉地で有名なため、広くその名は知られています。ところが、どうも、不思議な漢字の読みで、しっくりといきません。
調べてみると、次のような説明があり、俄かに、頷いたものでした。
その解説は、この辺りは、かつて複雑に川が流れる荒れ地であって、藺草(いぐさ)が一面に生い茂っていたとのこと。藺草は、藺(い)と呼ばれていて、この地は、”藺の沢”と呼ばれていたのです。それが、次第に転じた結果、”いさわ”→”石和”になったというのです。
後に街道は、笛吹川を渡ることとなりますが、その風景を眺めていると、藺の沢と名付けられた背景が、分かるような気がします。
本陣跡
石和八幡宮を過ぎた後、しばらくすると、道端に「史跡石和本陣跡」と刻まれた、立派な石碑がありました。
この本陣、明治13年6月6日に、火災により焼失したということで、今は、土蔵1棟のみが残っています。
※石和本陣跡。
旧道へ
やがて街道は、主要道路を左にそれて、旧道に入ります。沿線は、古くからの集落のような町並みで、ところどころに石仏などが置かれています。
※左方向の旧道に入る街道。
旧道には、果樹園なども点在し、果物の収穫が盛んな町だと分かります。この道が、およそ1キロ続いた先で、道は、笛吹川の右岸の土手に近づきます。
※果樹園も散らばる旧道沿の街道。
笛吹川の由来
旧道が、笛吹川の堤防につながる辺りに、少し変わった石像と、幾つかの石碑が置かれた一角がありました。
この石像、笛吹権三郎(ふえふきごんざぶろう)という人の肖像です。川を見下ろす堤防にある、笛吹川の由来を伝えるモニュメント。地元の人たちに、大切にされていて、親しまれている様子です。
※笛吹権三郎の石像と石碑群。街道は、この堤防には上がらずに、直前で左の細道に進みます。
笛吹権三郎と笛吹川のことについては、次のようのようなお話が残っています。
昔、この辺りに、親孝行の権三郎という少年が住んでいました。ある時、洪水が起こり、少年の母親は流されてしまいました。権三郎は、日夜母親を探し求め、母親が好きだった笛を吹きながらさまよい歩いたということです。
ところが、疲労が重なり、権三郎は深みにはまり亡くなります。その後、夜になると、権三郎の笛の音が河原に響くようになったというのです。いつの頃からか、笛の音が響くこの川を、笛吹川と呼ぶようになりました。
何とも、悲しいお話です。その後、笛吹川の流れを見ると、どうしても、寂りょうとした感情を、拭い去ることができません。
※松並木になっている、堤防下の旧道。
街道は、笛吹川の堤防には上がらずに、直前で、左の細道に入ります。堤防下に植えられた、松の並木に沿いながら、少しの間、この道を上流へと向かいます。