甲州へ
甲州の入口は、少しずつ山が退き、平地の幅が広がる地形。釜無川に沿いながら、徐々に下流へと向かいます。
街道は、ところどころで、国道と合流しつつも、大方は、古くからの道筋を辿ります。落ち着いた、のどかな様子の集落は、心も和む光景です。
信州から、甲州の中心部へと向かう道。川の流れは、常に街道と共にあるようです。
長野県と山梨県の県境、新国界橋(しんこっかいばし)から釜無川(かまなしがわ)を見下ろすと、この川の、危うさが分かるような気がします。この時は、清らかな水が瀬をつくり、緩やかに流れ下っていましたが、川岸をよく見ると、もぎ取られたような切り跡が続いています。
ひとたび、水嵩が増してくると、次から次に、川底と川岸を、削り取っていくのでしょう。
新国界橋を渡った先は、山梨県北斗市です。最近よく聞く名前ですが、北斗市は、平成の大合併で誕生した、新生の都市のひとつです。白州町(はくしゅうまち)や小淵沢町(こぶちさわちょう)など、それこそ、名の通った幾つかの町を、その市域に含んでいます。
先ずは、かつての、白州町。橋を渡ったすぐ後で、街道は、国道から左にそれて、旧道に入ります。
その先は、農地の中を真っ直ぐに延びる道。左手奥には、釜無川の流れです。
※国道から左にそれて、農地の中を進みます。
山口の関所跡
農地の先で、ひとつの集落に入ります。そこには、「山口の関所跡」と記された、大きな表示柱がありました。
名前の通り、ここには、かつて、関所があったようですが、この関所、東海道の関所とは、少し性格が異なります。傍にあった説明板には、次のように書かれています。
「甲州24ケ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊達進攻の際設けられたという伝承がある。」
※山口の関所跡と上教来石の入口辺り。
つまり、甲州の出入口に設けられた、国を守る目的の、関門のひとつだったということです。甲斐の国は、甲府盆地を領土とするため、各方面とつないでいるすべての道を、このようにして、監視していたのだと思います。
山口の関所跡が残るところは、上教来石(かみきょうらいし)の集落の入口です。次の宿場は教来石宿。元々は、上と下とに分かれていたようですが、宿場があったところまでは、まだ少し、先に行かなければなりません。それでも、道沿いは、何となく、宿場町の雰囲気が漂っているような光景です。
※上教来石の集落。
上教来石
集落が続く街道は、緩やかに上り下りを繰り返し、次の宿場へと向かいます。ところどころに、木造の歴史ある建物や倉庫なども見られます。広い庭に植えられた、生け垣や植栽は、美しく剪定されて、見事な樹形を誇っています。
※教来石の宿場に向かう街道。
やがて、街道は、一旦国道に入ります。そして、すぐその先で、再び、左先の旧道へ。
国道の右手には、幾つもの石仏が見られます。石仏の反対側が、旧道の入口で、国道との分かれ際には、「甲斐駒ヶ岳山麓 ここは北斗市白州町上教来石」と表示された、大きな案内板がありました。
※左、国道と石仏群。右、国道と旧道の分かれ道。
この先にある、上教来石の集落が、かつて、宿場があったところだと思います。ただ、今では、その面影はありません。
朽ちかけた建物が点在し、荒れ地なども見かけます。街道は、次第に、高台状の丘の上へと向かいます。
※街道は、ここから少し丘陵状の地形に向かいます。
小高くなった地形のところは、まるで、釜無川の自然堤防の様相です。緩やかにカーブを描き、街道は、教来石の集落を進みます。
相変わらず、道端には、馬頭観音やその他の石碑が見られます。
※小高くなった教来石の街道と集落。
下教来石
街道は、やがて、下教来石の集落に入ります。教来石の宿場町は、この、下教来石が中心です。元々ここは、本宿という位置付けだったということで、先に通った上教来石は、付属的な役割だったということです。
前の宿場の蔦木宿から、わずか5Km離れたところ。本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は7軒という、小さな宿場町だった様子です。
※下教来石の町並。
地名の由来
ここで、少しだけ、「教来石」という地名の由来に触れておきたいと思います。資料によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征中にこの地に立ち寄ったとする言い伝えがあり、その時腰を下ろした大きな石が、集落に残っているということです。
この石は、経来石(へてこいし)と呼ばれているようで、日本武尊が、どこかを経由してここに来て坐った石から名付けられたと伝わります。その後、経が教に転じることに。結果として、今の「教来石」になったというのです。
そもそも、日本武尊自体、実在したかどうか分かりませんし、話の内容は、少し屁理屈にも思えます。むしろ、前回にお伝えした、日蓮聖人の高座石と同様に、高僧が、何らかの教えを説いた石、とする方が、もっともらしい気がします。
※教来石の宿場町とその先の街道。
それはともかく、教来石の宿場町は、ほとんど、往時の面影はありません。それほど特徴の無い集落を、南へと進みます。
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