旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]11・・・教来石宿へ

 甲州

 

 甲州の入口は、少しずつ山が退き、平地の幅が広がる地形。釜無川に沿いながら、徐々に下流へと向かいます。

 街道は、ところどころで、国道と合流しつつも、大方は、古くからの道筋を辿ります。落ち着いた、のどかな様子の集落は、心も和む光景です。

 信州から、甲州の中心部へと向かう道。川の流れは、常に街道と共にあるようです。

 

 

 釜無川

 長野県と山梨県の県境、新国界橋(しんこっかいばし)から釜無川(かまなしがわ)を見下ろすと、この川の、危うさが分かるような気がします。この時は、清らかな水が瀬をつくり、緩やかに流れ下っていましたが、川岸をよく見ると、もぎ取られたような切り跡が続いています。

 ひとたび、水嵩が増してくると、次から次に、川底と川岸を、削り取っていくのでしょう。

 

※新国界橋から釜無川下流側を望みます。

 北斗市

 新国界橋を渡った先は、山梨県北斗市です。最近よく聞く名前ですが、北斗市は、平成の大合併で誕生した、新生の都市のひとつです。白州町(はくしゅうまち)や小淵沢町(こぶちさわちょう)など、それこそ、名の通った幾つかの町を、その市域に含んでいます。

 先ずは、かつての、白州町。橋を渡ったすぐ後で、街道は、国道から左にそれて、旧道に入ります。

 その先は、農地の中を真っ直ぐに延びる道。左手奥には、釜無川の流れです。

 

※国道から左にそれて、農地の中を進みます。

 山口の関所跡

 農地の先で、ひとつの集落に入ります。そこには、「山口の関所跡」と記された、大きな表示柱がありました。

 名前の通り、ここには、かつて、関所があったようですが、この関所、東海道の関所とは、少し性格が異なります。傍にあった説明板には、次のように書かれています。

 

 「甲州24ケ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊達進攻の際設けられたという伝承がある。」

 

※山口の関所跡と上教来石の入口辺り。

 

 つまり、甲州の出入口に設けられた、国を守る目的の、関門のひとつだったということです。甲斐の国は、甲府盆地を領土とするため、各方面とつないでいるすべての道を、このようにして、監視していたのだと思います。

 山口の関所跡が残るところは、上教来石(かみきょうらいし)の集落の入口です。次の宿場は教来石宿。元々は、上と下とに分かれていたようですが、宿場があったところまでは、まだ少し、先に行かなければなりません。それでも、道沿いは、何となく、宿場町の雰囲気が漂っているような光景です。

 

※上教来石の集落。

 

 上教来石

 集落が続く街道は、緩やかに上り下りを繰り返し、次の宿場へと向かいます。ところどころに、木造の歴史ある建物や倉庫なども見られます。広い庭に植えられた、生け垣や植栽は、美しく剪定されて、見事な樹形を誇っています。

 

※教来石の宿場に向かう街道。

 

 やがて、街道は、一旦国道に入ります。そして、すぐその先で、再び、左先の旧道へ。

 国道の右手には、幾つもの石仏が見られます。石仏の反対側が、旧道の入口で、国道との分かれ際には、「甲斐駒ヶ岳山麓 ここは北斗市白州町上教来石」と表示された、大きな案内板がありました。

 

※左、国道と石仏群。右、国道と旧道の分かれ道。

 

 この先にある、上教来石の集落が、かつて、宿場があったところだと思います。ただ、今では、その面影はありません。

 朽ちかけた建物が点在し、荒れ地なども見かけます。街道は、次第に、高台状の丘の上へと向かいます。

 

※街道は、ここから少し丘陵状の地形に向かいます。

 

 小高くなった地形のところは、まるで、釜無川の自然堤防の様相です。緩やかにカーブを描き、街道は、教来石の集落を進みます。

 相変わらず、道端には、馬頭観音やその他の石碑が見られます。

 

※小高くなった教来石の街道と集落。

 下教来石

 街道は、やがて、下教来石の集落に入ります。教来石の宿場町は、この、下教来石が中心です。元々ここは、本宿という位置付けだったということで、先に通った上教来石は、付属的な役割だったということです。

 前の宿場の蔦木宿から、わずか5Km離れたところ。本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は7軒という、小さな宿場町だった様子です。

 

※下教来石の町並。

 地名の由来

 ここで、少しだけ、「教来石」という地名の由来に触れておきたいと思います。資料によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征中にこの地に立ち寄ったとする言い伝えがあり、その時腰を下ろした大きな石が、集落に残っているということです。

 この石は、経来石(へてこいし)と呼ばれているようで、日本武尊が、どこかを由してここにて坐ったから名付けられたと伝わります。その後、経が教に転じることに。結果として、今の「教来石」になったというのです。

 そもそも、日本武尊自体、実在したかどうか分かりませんし、話の内容は、少し屁理屈にも思えます。むしろ、前回にお伝えした、日蓮聖人の高座石と同様に、高僧が、何らかの教えを説いた石、とする方が、もっともらしい気がします。

 

※教来石の宿場町とその先の街道。

 

 それはともかく、教来石の宿場町は、ほとんど、往時の面影はありません。それほど特徴の無い集落を、南へと進みます。

 

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