旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]108・・・鶴見から川崎宿へ

 川崎の宿場町

 

 いよいよ、川崎の宿場です。江戸に向かう直前に、多摩川の川面が行くてを阻み、最後の渡しに臨む場所。旅人の喧騒が、今も伝わってくるような、不思議な空気を感じます。

 街道の道筋は、往時のルートと変わらずに、今日を迎えています。関東大震災を始めとして、先の戦争の破壊を経ても、道の流れを今にとどめているのです。

 大都会の中にあっても、歴史の痕跡が残る道。歩き旅の醍醐味を、噛みしめながら歩きます。

 

 

 市場の一里塚

 街道は、横浜市鶴見区の市場の街に入ります。鶴見川を越えてから、道沿いには、ビルの姿は見られません。住宅が軒を連ねる、街並みが続きます。

 

鶴見区市場の街。

 

 しばらくすると、道の右手に小さな公園が現れました。そして、公園の入り口には、立派な造りの石碑です。「市場村一里塚」と記されたその石碑、堂々とした姿が印象に残ります。

 公園前の解説には、「左側(江戸から来て)の塚が現存しています。」と書かれていますが、塚はもう、昔のままではありません。それでも、この一里塚、横浜市地域文化財として登録されているということです。

 

※市場の一里塚。公園の奥には小さな神社も確認できます。

 鶴見から川崎へ

 この辺りの道筋には、ところどころに、下のような表示板が置かれています。この表示を確認しながら、川崎へと向かいます。

 

※道路に施された表示板。

 

 住宅が続く道を歩いていると、左側に、厳かな佇まいの神社です。由緒がありそうなこの神社。横浜熊野神社だそうで、熊野信仰の風格が、漂うような空間です。

 

※横浜熊野神社

 八丁畷

 やがて、街道は、川崎市に入ります。この辺りは、八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる地域。かつて、市場の村と川崎宿とを、直線的につないだ道が、その名の由来ということです。

 

八丁畷の道筋。

 

 道端に置かれた案内板には、次のように書かれています。

 

 「東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近)から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。」

 

 道沿いは、次第に、マンションや店舗などが目立ってきます。そして、JR南武線の高架の軌道が、街道を横切ります。道の右には八丁畷駅の表示が見えました。

 

八丁畷駅近く。

 

 川崎宿

 道は、この先で、右に左に折れ曲がり、川崎宿に近づきます。途中、京急線の踏切を越え、その後、線路に沿うような状態で、北東の方向へ。

 元々の街道は、おそらく、直線で結ばれていたのでしょう。京急線の通過によって、街道の道筋が崩れてしまった様子です。

 

京急線の踏切を越え、すぐ左方向へ進みます。

 

 芭蕉の句碑

 踏切からしばらく歩くと、歩道に沿った左側の一角に、小さな緑地が現れます。そこには、祠のような建物があり、その中に、ひとつの石碑が佇みます。

 その石碑は、芭蕉の句碑。緑地の中の説明板には、次の記載のありました。

 

 「俳聖松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある   麦の穂をたよりにりにつかむ 別れかな   の句にたくしました。」

 

 その年の10月には、芭蕉は、大坂で他界します。

 

 「それから130余年後の、文政13年(1830)8月、俳人一種(いっしゅ)は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。」

 

 とのこと。川崎の宿場のはずれ。西国を目指す芭蕉の姿を、見送るようなこの句碑は、今も、不思議な趣を放っています。

 

※左、句碑のある緑地。右、芭蕉の句碑。

 川崎宿

 街道は、やがて、川崎警察署東側入口の交差点。ここを渡ると、川崎宿の京入口に入ります。

 

※交差点の先から川崎宿に入ります。

 

 川崎宿は、ビルが連なる道筋です。往時の面影が、感じられる建物はありません。それでも、道の流れは、街道の雰囲気を残しているような気がします。

 緩やかに、S字のカーブを描く道。その道幅も、それほど広くはありません。街灯のポールなどに掲げられた、「川崎宿」のバナーなど、街道の雰囲気を盛り上げます。

 

 

※今の川崎宿の様子。

 

 街道は、やがて、砂子(いさご)の交差点。ここを左に向かったところが、JR川崎駅。反対の右側は、市役所や川崎の競馬場の方面です。

 砂子の交差点を渡った先は、少し街の様子が変わります。ビルの高さもやや低まって、下町のような雰囲気さえ感じます。

 

※砂子交差点の北側に続く宿場町。

 

 川崎宿について

 途中、道沿いには、川崎宿を紹介する、立派な案内板がありました。それによると、川崎宿は、「旅籠や商家など350軒ほどの建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた」と書かれています。

 さらに、「古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約70軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気に満ちた都市的景観を認めることができる。」とのこと。

 

 歴史ある宿場街の街道歩きを楽しんで、多摩川の堤へと向かいます。

 

※道端に置かれた川崎宿の案内板。