旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]109・・・川崎宿と六郷橋

 川崎

 

 東京と横浜に挟まれた、細長い区域が川崎市。人口、150万人を擁する、政令指定都市のひとつです。東京とは、多摩川を挟んだ対岸で、東京湾にも面しています。

 多摩川の河口の北は、羽田空港の埋め立て地。南側の川崎市埋立地には、工業地帯が広がります。千葉県の木更津市とをつないでいる、アクアラインも、川崎がその西側の入り口です。

 有名な川崎大師は、川崎の宿場から、少し東に向かったところ。参道には、お店が並び、賑わいの街の様相です。昔から、街道を往来する旅人たちも、参拝に立ち寄っていたのでしょう。

 日本でも有数の都市である川崎市。宿場町の一角には、”かわさき宿交流館”が設けられ、宿場の歴史を伝えています。

 

 

※川崎大師。*1

 

 川崎宿

 川崎宿は、街はすっかり近代化され、往時の姿を窺えるところはありません。これまで、震災や空襲、洪水などが、街の姿を大きく変貌させてきたのです。

 それでも、街道筋のあちこちに、往時の宿場施設の案内表示が掲げられ、宿場の歴史を伝えています。

 

※左、問屋場跡の表示。右、田中本陣跡の表示。

 かわさき宿交流館

 宿場町を歩いていると、右側に、意匠を凝らした、不思議な建物が現れました。建物周囲の幟旗や入口ののれんなど、誘客の配慮なども感じます。この建物は、”かわさき宿交流館”。誘われるまま入口を潜ります。

 

※交流館の正面。

 

 交流館は、4階建ての建物で、2階と3階のスペースが、宿場関係の展示です。宿場町の模型なども置かれていて、川崎の歴史が学べます。4階は、集会室など、事務的なフロアの様子です。

 地元の観光協会が運営するこの施設、街道歩きの途中には、是非とも立ち寄りたいところです。

 

※交流館前の様子。

 

 館内展示

 ここで、館内に置かれていた、宿場の模型を紹介します。

 解説には、「この模型は『東海道分間延絵図』(1806年完成)を参考に、さまざまな資料を駆使して想定再現しました。」と書かれています。模型の手前側が西方向。ここでは、市場村の一里塚から始まって、東側の最上部は、六郷の渡しです。

 昔の様子が偲ばれる、貴重な模型を眺めていると、往時に暮らした人々の、息遣いや足音が、聞こえてくるような気がします。

 

川崎宿の模型。

 もうひとつ、「川崎宿の解説」と記された、大きな館内展示です。中央の、新旧の俯瞰図と写真を見ると、宿場町の街道筋は、往時と今と、それほど変わっていないことが分かります。

 幾度もの、災害などに晒されて、町は大きくその姿を変えたはず。それでも、街道のルートについては、往時のまま変わらずに、今日を迎えているのです。

 

※交流館内の展示。

 

 多摩川

 ”かわさき宿交流館”を後にして、多摩川方面へと向かいます。しばらくすると、正面に、国道15号線の六郷橋。その橋の少し手前で、川崎宿は終わりです。

 多摩川には、慶長5年(1600)、六郷大橋が架けられたとのことですが、貞亨5年(1688)の大洪水で、その橋は、流されたということです。その後、江戸期の間、橋は架かることなく、”六郷の渡し”によって、対岸と結ばれていたのです。

 

※江戸口見附近く。道の奥に見えるのが国道15号線に架かる六郷橋

 六郷の渡し
 東海道の往来は、数多くの川越しを、乗り越えなければなりません。大井川や富士川の急流は、大変な危険を伴っていたでしょう。あるいは、桑名宿と宮宿を結んでいる七里の渡しや、浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しなど、数里に及ぶ船旅も克服しなければなりません。

 そして、西国から江戸に向かう最後の渡しが、多摩川を横断する、六郷の渡しです。

 

 私たちは、宿場町を後にして、六郷橋に向かいます。多摩川の堤の下に差し掛かったところには、「六郷の渡しと旅籠街」と記された案内板。そして、下流側に回ってみると、堤防には、渡しに関するモニュメントや、川崎大師の灯篭などがありました。

 

※左、六郷橋の上流側の堤下。右、橋の下を潜り抜けた下流側の堤防。

 ここで、先に記載した内容と、重複する部分もありますが、下流側に設けられた、渡しに関する案内板の記載文を紹介します。

 

 「関東でも屈指の大河である多摩川下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。そこで慶長5年(1600)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を掛けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、貞亨5年(1688)7月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。渡船は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。」

 

 ある意味で、今日の川崎の発展の、礎であったとも言えなくもない、六郷の渡しの運営は、川崎の人たちにとっては、忘れてはいけない歴史なのだと思います。

 渡しの名残を伝えるための、様々な意匠や表示など、大切に引き継いで頂きたいと思います。

  
 保土ヶ谷の宿場から始めた、この日の歩き旅の行程は、六郷橋で終了です。15Kmの道のりを終え、翌々日に、最後の区間を歩きます。

*1:本来の名称は平間寺(へいけんじ)。通称名は、弘法大師像にまつわる伝承に由来しています。