歴史の道
神奈川宿は、江戸日本橋から3番目の宿場町。距離にして、およそ28Kmの地点にあたります。早朝に江戸を発った旅人は、昼過ぎから夕刻までには、この宿場に到着し、茶店などで、一息ついたのかも知れません。都から江戸に向かう場合には、あと一息。江戸の町を想い描いて、足を早めたことでしょう。
神奈川は、また、神奈川湊が置かれていて、幕末の日米修好通商条約で、開港場とされた場所。後に、南に隣接する横浜が、その役割を果たすのですが、海外の領事館は、この周辺に設けられたということです。
幕末から明治にかけて、大きく時代が動いた中で、神奈川は、まさに、歴史を背負った、重要な役割を与えられていたのです。
横浜
街道は、横浜駅西口近くの主要道路(国道1号線だと思います。)の北側を、その姿を隠すようにして、静かに北東へと向かいます。
落ち着いた雰囲気の道筋は、横浜の市街地とは思えない、穏やかな空気が流れています。
※横浜駅西口近くを通過する街道。
台町
横浜の落ち着いた住宅地。駅の西に広がる区域は、横浜市西区になるようです。しばらくして、西区の街を過ぎた後、街道は神奈川区に入ります。
道は緩やかな坂道になり、上台橋を迎えます。その後、勾配は一気に増して、高台の街へと向かうのです。
※上台橋。
この坂道の道筋は、台町と呼ばれるようで、神奈川宿の西の区域にあたります。途中、道端には、「神奈川台の関門跡」と記された、立派な案内板がありました。
「ここよりやや西寄りに神奈川大の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。」
この説明から推測すると、神奈川宿は、この案内板の辺りから始まっていたようです。先の宿場の保土ヶ谷からは、およそ5Kmの地点にあたります。
※神奈川台の関門跡。
歴史の界隈
関門跡を通り過ぎ、しばらく、高台の街を歩いた先にあったのは、「神奈川の台と茶屋」と記された案内板。この記事も、大変興味深い内容なので、そのまま引用させていただきます。
「この台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』では、「爰(ここ)は片側に茶店軒を並べ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下桟(さんばし)などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とある。「おやすみなさいやァせ」茶店女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋(ママ)あたりだといわれている。」
※「神奈川の台と茶屋」の案内板と田中家(看板の向こうに写っているアイボリー色の木造建物)。
この櫻屋。今もそこには、”田中家”の看板がかかっています。幕末に、高杉晋作やハリスなども訪れた名店ということですが、田中家前の説明板には、坂本龍馬の妻であった”おりょう”のことが書かれています。
京都の市中、近江屋で命を絶たれた坂本龍馬。その連れ合いは、新政府になった後も苦労を重ね、ここ櫻屋で働いていたということです。
有名人の足跡を伝える建物が、その姿を変えたとはいえ、今に残っている様子を見ると、往時の人達の存在が、身近に感じられるような気がします。
※現在の田中家。
歴史の道を味わいながら、更に東へと向かいます。この辺り、道は、緩やかな下り坂。少し進んで、国道1号線の側面へ。その先は、左折右折と、クランク状に折れ曲がり、国道を渡ります。国道を渡ったところの一段下には、JRの各線(横須賀線・京浜東北線など)や京急線が、幾本もの軌道を束ねています。その軌道を越える橋梁が、青木橋。
橋を渡って左を見ると、京急線神奈川駅の、小さな駅舎が見えました。
※京急神奈川駅(左)と宮前商店街。街道は、この商店街の方向です。
東神奈川へ
街道は、宮前商店街と掲げられた、ゲートの下に入ります。この商店街、入ってみると、それほどお店はありません。むしろ、マンションなどが連なった、住宅地の様相です。
※宮前商店街の通り。
宮前商店街の道を緩やかに下っていくと、左手に、鳥居とともに、”須崎大神”と刻まれた、大きな石柱が現れます。石柱のすぐ前には、須崎大神の案内板。そこには、開国の頃、この神社の近くに船着き場があったと書かれています。
開国場の横浜湊と、神奈川の宿場をつなぐ海上ルート。今では、何のことかと思うほど、この辺りの様子は一変し、往時を思い描くのは、至難の業という他はありません。
街道は、その後、国道15号線に入ります。そして、国道の右上には、首都高速1号線(横羽線)の高架道路が通っています。
※左、須崎大神。右、首都高速1号線の高架。
国道15線の歩道に沿って東に進むと、やがて、JRと京急線の東神奈川駅近く。神奈川二丁目の大きな交差点を迎えます。
※神奈川二丁目交差点。
宿場の東口
国道沿いの街道は、往時の面影を残すところはありません。わずかに、道沿いの神社や寺院が、かすかな、歴史の空気を放っています。
途中、浦島町の交差点を通過して、子安方面へと向かいます。
神奈川宿の東の外れは、浦島町のやや西辺り。今でいう、京急神奈川新町駅の近くだったということです。
神奈川宿は、この辺りまで。その延長は、2Kmを優に超える大きさです。江戸近くの神奈川宿が、この規模を誇るとは、意外なことではありますが、江戸付近の湊から、船でここに向かうなど、神奈川は、陸と海との交通の拠点だった証であると言えるでしょう。
※左、稲荷神社。右、浦島町交差点。
街道は、この後、子安・生麦・鶴見を経て、一路川崎の宿場を目指します。