旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]111・・・品川宿

 品川

 

 東海道の1番目の宿場町は、品川です。私自身、これまでから、数多く足を運んだ品川ですが、それは、駅の周辺だけ。宿場町がどこにあるのか、あまり気にかけなかったような気がします。

 それでも、テレビでは時折り紹介される品川宿。いつかは、訪れてみたい街でした。

 大都会の中にあっても、いまだに、街道筋が残る街。江戸時代の喧騒が、聞こえてきそうなところです。

 

 

 旧道へ

 街道は、品川区に入ってからも、少しだけ国道沿いを進みます。高層の建物が目立ち始めて、交通量も頻繁です。しばらくすると、右手には、しながわ水族館の標識がありました。この道の右奥に、水族館があるようです。

 

※品川区の街道筋。写真正面の方向が旧道です。

 

 やがて、街道は、国道からそれ、斜め右方向の旧道に入ります。旧道の入り口辺りは、道路整備が進んでいるため、古くからの街道筋、という雰囲気ではありません。ただ、道の左に掲げられた、「東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡」の標柱や、辺りに置かれた石碑などは、わずかに、往時の空気を残しています。

 

※旧道入口と鈴ヶ森刑場遺跡。

 

 鈴ヶ森遺跡

 鈴ヶ森刑場遺跡のことについては、道沿いに置かれていた説明板で、その概要が分かります。

 

 「鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安4年(1651)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄8年(1695)実施の検地では間口40間、奥行き9間であったとされます。・・・この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八八百屋お七白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。」

 

 品川宿

 旧道に入った辺りは、”大井”とも呼ばれています。この道の右奥には、有名な、大井の競馬場や、海浜公園などがあるようです。海に近く、かつてはそれこそ、海岸沿いの街道だったのだと思います。

 しばらくすると、浜川橋と記された、小さな橋を渡ります。立会川に架かけられたこの橋は、別名、泪橋と呼ばれています。刑場近くにあるが所以の名称だと、説明している資料もありました。

 街道は、その後次第に、宿場町に近づきます。

 

※浜川橋。

 

 品川宿はどの辺りからなのか。私の持ち合わせの資料では、明確に書かれたものはありません。ただ、『人力』というウェブ・サイトでは、「当時の宿場の中心は、京浜急行線の北品川駅から青物横町駅辺りにかけて」との記載です。

 また、『歩いて旅する東海道』という書籍には、「江戸時代末の品川宿は、北は八つ山口から目黒川までの徒歩新宿(かちしんじゅく)と北品川宿、南は目黒川から青物横丁と鮫洲(さめず)の境までの南品川宿から成っていた。」と書かれています。

 

 下の写真は、京急鮫洲駅の南、大井二丁目の街道ですが、道筋の景観は、既に、宿場町の空気が漂ってくるようなところです。

 

品川宿を目前にした街道の様子。

 品川宿

 やがて、左手奥の、京急鮫洲駅をこえたところで、街道は、都道との交差点を迎えます。

 おそらく、この交差点の辺りから、南品川の宿場町となるようです。道の左右に立てられた、修景の柱には、「青物横丁商店街」の表示と共に、「東海道品川宿」の記載もありました。

 

都道との交差点を越えた先。ここからが南品川宿

 

 品川宿の街道は、その道幅は、往時のままのような気がします。道の流れも同様で、街道の雰囲気を感じます。

 ただ、道沿いの建物は、宿場町の面影はありません。新しい住宅やお店などが、びっしりと、軒を連ねる状態です。

 

※南品川の宿場町。

 

 品川寺

 青物横丁商店街を北に進むと、左奥には、京急青物横丁駅。そして、その辺りの道端に、奥ゆかしい面持ちの仏像の姿が見えました。

 仏像の奥の方には、寺院の山門も望めます。私たちは、ここで少し寄り道です。品川寺と記された山門を潜り抜け、街の中の空間に、密かに佇む境内に向かいます。

 

 釜屋跡

 品川寺の参拝を終えた後、再び宿場町に戻ってみると、お寺の向かいのマンションに、「江戸幕府御用宿 釜屋跡」と記された、説明板が置かれているのに気がつきました。

 少し興味を引かれる内容なので、ここで紹介したいと思います。

 

※左、品川寺。右、釜屋跡の表示板。

 

 「南品川には旅人が休息をする「建場茶屋」*1が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸に入る大名が、旅装束から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。」

 「なかでも品川寺門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。」

 「慶応3年(1867)には、「幕府御用宿」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。同年10月21日、新選組副長・土方歳三と副長助勤・井上源三郎が、新入隊士や故郷の支援者達、計31名で休息した記録が残されております。」

 

 釜屋跡を過ぎた後、もうしばらく、南品川の宿場町を歩きます。道筋は、相変わらず、住宅やお店などが並んでいますが、比較的、落ち着いた雰囲気のところです。

 そして、次に目指すところは、北品川の宿場町。もう間もなく、その境目の目黒川を迎えます。

 

※南品川の宿場の街並み。

 

*1:「建場」は、普通「立場」と書くのですが、ここでは「建場」と書かれています。