旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ15・・・下北半島(2)

 最果ての地

 

 本州の北の端の下北は、自然が厳しいところです。陸奥湾沿いの、僅かな農地からの収穫と、湾内の水産物が、地域の生活を支えます。平坦地は限られて、山地や崖地が半島の大半を覆っている状況です。

 冬の季節は北風が厳しくて、風雪に悩まされることも多いでしょう。半島の北側は、海峡や太平洋の荒波の中、漁業を生業とする方も、厳しい自然の中で暮らしています。

 この最果ての地に、活路を賭した会津藩。新政府に抗った人々の生活は、いかばかりであったのか。その困難を思うとき、歴史の傷みを感じない訳にはいきません。

 

 

 尻屋崎へ

 恐山を後にして、下北の東端、尻屋崎に向かいます。釜臥山の坂を過ぎると、道はそれほど厳しくはありません。緩やかに上り下りを繰り返し、点在する、集落をすり抜けます。やがて、防風林に挟まれた、真っ直ぐな道路を進んでいくと、その先は北の海に接近した、崖地の道に変わります。

 荒涼とした景色の中をさらに進むと、鉱石の採石場のような工場が現れます。半島の自然が広がる最果ての地に、突如姿を見せる機械群。何とも、興醒めとしか言いようがない光景です。

 道はその先で、二手に分かれ、左方向が尻屋崎。自動で開く踏切のようなゲートを通って、岬へと向かいます。このゲートは、夕刻から朝までの、通行時間制限のために設けられている様子です。夜間には、尻屋崎への侵入は禁止されているのかも知れません。

 

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※尻屋崎と灯台

 

 尻屋崎

 ゲートの先は、草原のような台地が広がります。以前は、ここに、野生の馬がいた記憶がありますが、今回は、馬を見ることはできません。

 草原をさらに進むと、尻屋崎の突端です。そこには、白亜の美しい灯台が、その姿を誇示しています。

 私たちが尻屋崎を訪れた時、北西風が厳しくて、歩くのも、大変な状況でした。常日頃、このような風が吹くのかどうか。ここからも、厳しい自然の有様を感じ取ることができました。

 

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※尻屋崎の様子。

 

 斗南藩史跡地

 尻屋崎から、むつ市へと戻る途中に、斗南藩(となみはん)史跡地に立ち寄りました。現在のむつ市の市街地にほど近く、小高い丘のようなところに、この史跡地はありました。

 下北は、新政府に敗北し、会津を追われた人たちが、領地をあてがわれたところです。島流しともとれるような、最果ての地への移住を決行し、新天地を求めた会津藩。苦難の道は、続きます。

 

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会津の人たちが斗南藩を設けて、ここに市街地を設置しました。

 

 この史跡地は、「斗南ケ丘市街地跡」と呼ばれています。敷地内の説明版には、次のような記述がありました。

 

 「斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって『斗南ケ丘』と名づけられました。明治三年一戸建て約三十棟と二戸建て約八十棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打を禁止し、十八ケ所の堀井戸をつくりました。・・・しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。」

 

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※史跡に置かれた説明板。

 

 会津と斗南

 「獅子の時代と斗南ケ丘」と題された、もうひとつの説明板。そこには、会津と斗南の歴史について、ごく簡潔に記されています。

 

 「東北の獅子と呼ばれた会津藩戊辰戦争明治新政府の追討をうけ、明治元年(1868)九月に降伏の白旗をかかげた。明治二年(1869)一年一ケ月余りで家名再興が許され、当時生後五ケ月の松平容大(かたはる)公が跡を継ぎ三万石を与えられ、明治三年に藩名を斗南藩とした。」

 「明治四年七月、廃藩置県が行われる。九月には斗南県を含む五県が弘前県に合併され、さらに翌年には政府の援助も打ち切られるなど、時代の移り変わりに翻弄され多くの藩士が斗南を去る結果となった。」

 

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福島県会津若松市鶴ヶ城。以前訪れた時に写した写真です。

 

 司馬遼太郎も、『街道をゆく』の中で、次のように触れています。

 

 「戊辰(1868)九月二十二日、会津鶴ヶ城は落城し、容保(松平容保・まつだいらかたもり)は、新政府軍に降伏した。会津藩の石高は最末期には役料を含めて四十五万石とされたが、戦後没収され、下北半島(斗南)に移された。石高はわずか三万石だった。もっとも下北半島では米がほとんど獲れないために、その三万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる。」

 

 わずか数年で離散状態となった会津藩飯盛山の白虎隊に象徴される獅子の国も、歴史に翻弄され続け、その姿を消すことになるのです。

 斗南藩の史跡地は、過酷な歴史と自然環境に活路を絶たれた、会津の人の終焉地。何となく、寂しさを感じる場所でした。

 

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※斗南ケ丘の様子。

 それでも、会津の人々は、この地に大切な足跡を残します。何回も引用してきた、司馬遼太郎の『街道をゆく』の中では、そのことに触れられている箇所があるのです。

 その功績が綴られた一文を、是非ともお伝えしておきたいと思います。

 

 「斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状の中で、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。旧会津藩の藩校日新館の蔵書をこの田名部に移し、さらにあらたに購入した洋書を加えて、会津時代と同名の日新館を興したのである。・・・田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだった。この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる。」

 

 家訓15ケ条や什の掟(じゅうのおきて)に象徴される、会津藩の精神は、下北の地へも引き継がれていったのです。

 

 再び円通寺

 恐山に向かう途中に立ち寄った円通寺。街中に残るこの寺に、斗南藩の藩庁が設置され、藩政が執り行われることになりました。また、ここには、松平容大が、わずか3歳でありながら、藩主として暮らしたということです。

 先に記した藩校の日新館も、この敷地に設けられることになりました。むつ市は、福島の会津とのつながりを持つ、本州最北の都市なのです。

 

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円通寺

 

 「出会い旅のスケッチ」の津軽と下北のシリーズは、今回が最終回。次回から、「歩き旅のスケッチ[東海道]」に戻ります。

 東海道の街道歩きは、いよいよ、箱根の山に差し掛かり、最大の難所へと向かいます。見どころ多い東海道。歩き旅の様子を綴り、その魅力をお伝えしたいと思います。