旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ13・・・津軽半島(5)

 太宰治の足跡

 

 今回の「出会い旅のスケッチ」は、津軽半島を巡る旅。太宰治の『津軽』とともに、幾つかの史跡名勝を訪れました。

 いよいよ、このシリーズも最終回。太宰治が、若き日に、暮らし訪ねた思い出の地を巡ります。

 

 

  五所川原

  金木から、五所川原の中心までは、10Kmほどの道のりです。稲穂が実る津軽平野を南に向かい、街の中に入ります。

 五所川原は、駅の西側が旧市街地で、東側は、住宅や新しい郊外型の街並みが広がります。JRと津軽鉄道の2つの路線が合流する、津軽平野の中心地とも言えるところです。

 駅は、路線ごとに分かれていて、隣り合わせに並んでいます。特に、津軽鉄道の駅舎については、私が学生の頃訪れた時の面影が、そのまま残っているような建物で、懐かしく感じたものでした。

 

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津軽鉄道五所川原駅

 この五所川原太宰治が慕っていた、彼の叔母の家があったところです。

 『思ひ出』では、幼少の頃のかすかな記憶が、叔母と共にあったことを、温もりの中で綴っています。『津軽』では、「幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びにきた。」と記されていて、五所川原は、太宰治の馴染みの街だったことが分かります。

 『五所川原』という随筆では、旭座と言う芝居小屋か、映画館の話題も出てきます。太宰治が歩いたの頃の、五所川原の街中の情景を思い起こして、駅前の、メイン道路を見つめます。

 

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※左、五所川原の駅前。タクシーの向こうの建物がJRの駅舎。右、駅前通り。

 

 五所川原駅前通りは、随分と新しい街に変わっています。それでも、ところどころに、昔の面影も残していて、時間があればゆっくりと散策したいようなところです。

 

 浅虫温泉

 五所川原から、次に向かった先は、青森市の東隣の温泉町、浅虫温泉というところ。浅虫温泉は、全国的にも有名な温泉地。テレビでもよく紹介されるため、ご存じの方もおられると思います。

 私たちはこの温泉地で宿をとり、その後、下北へと向かいます。

 

 浅虫温泉は、太宰治が中学の頃、母親と末姉が、一時期逗留していたところです。それほど大きな温泉地ではないものの、市街地の近くにあるために、昔から、多くの人が訪れる場所でした。

 ところが、私たちが訪ねた時は、それこそ、新型コロナの影響で、閑散とした状態でした。裏寂しい、北の国の温泉地。静かに湯煙の香りを味わいながら、一夜を過ごすことになりました。

 

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浅虫温泉駅

 

 太宰治は、『津軽』の中で、「青森市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。」として、母親が逗留していた頃の思い出を綴っています。

 太宰治の中学校は、青森市にあったため、時折、この温泉地を訪れていたのです。

 

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浅虫温泉の海岸から青森市方面を望みます。

 浅虫温泉の海岸は、陸奥湾を臨む位置。西には、岩木山の美しい姿を捉えることも可能です。曇天の陸奥湾は、どこか裏寂しい場所ですが、その悲しげな風景は、一方では、旅情を誘う効果にも、寄与しているように思えます。

 

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浅虫温泉の海岸の風景。

 

 弘前

 この後、私たちは、下北へと向かうのですが、下北の紹介は次回にまわし、太宰治が高校の時暮らしていた、弘前のことに触れたいと思います。

 弘前は、津軽平野の南に位置し、津軽藩の拠点の地だったところです。下北半島を巡った次の日に、城下町、弘前を訪れました。

 

 弘前城

 私たちが、弘前で車を停めたところは、弘前城のすぐそばにある、津軽藩ねぷた村の駐車場。そこには、ねぷた祭りを紹介する、文化センターがありました。ただこの時は、新型コロナの余波を受けて休館中。幾つか並ぶ土産店を覗きながら、城の方へと向かいます。

 

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ねぷた村の土産物店。

 

 弘前城は、戦国武将の津軽為信が築城した名城です。司馬遼太郎の『街道をゆく』の中では、「日本七名城の一つといわれるが、この優美な近世城郭が僻陬(へきすう)の地の津軽に出現したこと自体、奇跡にちかい。」と書かれています。

 陸奥の、奥地とも言える津軽の土地に、立派な城を築いた津軽為信司馬遼太郎は、為信の、徳川家康に対する忠誠心が、その背景にあったようだと綴っています。

 

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※左、堀の様子。右、北門をくぐった先の県護国神社


 天守

 築城当時弘前城は、その本丸に、五層の天守閣が聳えていたといわれています。しかし、建造後、わずか17年、落雷によりその姿を消しました。

 その後、天守閣は再建されることはなく、三層の櫓を天守として、位置付けることになったのです。

 今は、この天守閣も、その基礎部分の改修中。天守閣の建物は、曳家によって、数十メートル離れた位置に置かれています。

 

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※移動されている、弘前城天守閣。

 

 弘前城天守閣のことについては、司馬遼太郎の感慨に触れない訳にはいきません。少しだけ、『街道をゆく』の一文を引用をしたいと思います。

 

 「本丸にのぼった者は、この台上の主役が天守閣でないことを悟らされるのである。私ものぼりつめてから、天守閣を見るよりも、・・・天を見ざるを得なかった。その天に、白い岩木山が、気高さのきわみのようにしずかに裾をひいていた。息をのむ思いがした。・・・三層の天守閣が、津軽平野の支配の象徴ではなく、じつはこの天守閣は、神である岩木山に仕えているのだということを知らされる。もしここに大阪城天守閣ような巨大な構築物を置くとすれば、岩木山を主役とするこの大景観に対して調和をうしなう。・・・寛永四年の落雷は、あるいは天意だったかもしれない。」

 

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※左、二の丸丑寅(うすしとら)櫓。右、本丸への道。

 

 太宰治

 太宰治は、旧制弘前高校に在籍し、3年間、この弘前で暮らしています。その間、当然ながら、弘前城の本丸にも足を延ばしている訳ですが、彼の本丸での感想は、司馬遼太郎とは、少し観点が異なります。再び、『津軽』の引用です。

 

 「弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。・・・お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。・・・私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。」

 

 天を見て、岩木山と共ににある、弘前の姿を愛でた人と、脚下を見て、古雅に佇む町の姿に、思いを馳せることになった人。

 見る先は異なってはいるものの、弘前への、津軽の土地への愛着が、伝わってくるような一文です。

 

 仲町地区

 弘前城の北門を出て、少し街中に入っていくと、歴史的な町並みや、美しい住宅地が広がります。ここは、弘前市仲町重要伝統的建築物群保存地区。昔ながらの町の姿を保存する努力がなされています。

 通りには、板塀や生け垣が延々と続きます。ただ、住まい自体は、新しく近代的な建前が多かったように思います。

 

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※歴史的な建物や、通りが残されています。

 

 仲町の一角には、旧伊藤家住宅の荘厳な門構えの屋敷なども残っていて、見どころは満載です。この住宅は、萩藩の、高杉晋作も訪れたといわれるところ。歴史を背負った建物です。

 

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※旧伊藤家住宅。

 

 太宰治のあとを追い、津軽の地を巡った旅は、ここ弘前で終了です。久し振りの津軽の空気は、懐かしく、心地よく感じたものでした。

 5回にわたり紹介してきた、「出会い旅のスケッチ」の津軽半島シリーズは、今回で一区切り。次回と次々回は、下北半島を描きます。