旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]93・・・小田原宿

 小田原

 

 小田原は城下町として有名ですが、関西人にしてみれば、その位置関係を正しく把握できているかどうかは微妙です。その原因は、点で結ぶ移動手段を主流とする、今日の観光の形態にあるのではないかと思います。そして、もう一つ、小田原の近くには、箱根や伊豆の一大観光地が控えているため、小田原を訪れる機会が、それほど多くはないということなのかも知れません。

 例えば、新幹線で東京方面に向かう時、小田原は、左手に富士山を認めた先で、幾つかのトンネルを抜けた直後にひらけた街、という捉え方が一般的。関東の入口だとは認識しても、それ以上の位置関係に思いを致すことはないのです。

 それでも、この小田原に足を停め、箱根や伊豆を訪ねてみると、あまりの距離の近さに、驚きを覚えます。箱根の東の玄関口、箱根湯本の駅までは、小田原駅から、わずか15分で到着します。箱根の山の芦ノ湖までも、それほど時間はかかりません。

 一方で、海伝いに車を走らせた場合には、30分も掛からずに、真鶴へ、そして湯河原や熱海の温泉地にも行けるのです。地理的にも、気候的にも、この上なく恵まれた小田原は、羨ましくもなるような、豊かな資源の宝庫です。

 

 

 板橋口から

 板橋口を左に折れると、すぐ左には、大木が印象的な、立派な寺院が構えています。このお寺、光円寺というようで、浄土真宗の寺院です。

 街道は、この先、国道1号線の歩道沿いを小田原の市街地に向けて進みます。

 

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※光円寺前の街道の様子。

 

 国道をしばらく歩くと、正面に、箱根登山鉄道東海道本線鉄道の軌道の高架が現れます。この高架を潜り抜けたところが、早川口の交差点。かつての宿場町の中心部は、この辺りから始まります。

 街道は、早川口の交差点を真っ直ぐに渡って行きますが、左の先には、トンネルの道も見られます。小田原城小田原駅がある方面は、トンネルの先の方。宿場町は、城下町の中心部を、南側に回り込むような格好で続きます。

 

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※早川口の交差点。街道は真っすぐ正面の道。左のトンネルは、小田原駅方面です。

 

 小田原宿

 小田原の宿場があった街道は、今は、美しく整備された舗装道。片側2車線を擁している、道幅の広い国道です。歩道も広く確保され、歩きやすい道筋です。

 道端には、所々に、昔の町名などの標示がありますが、この辺りの街並みは、かつて宿場町であったことなど、想像すらできません。後ほど、少し触れますが、第二次世界大戦時の空襲で、街の姿は変貌することになったのです。

 

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※小田原宿があった街道。

 

 国道をしばらく進むと、左手に、お城のような建物が見えました。”ういろう”と書かれた看板から推測すると、老舗の”ういろう”店なのでしょう。

 そう言えば、この道を歩いていたら、どこかで小田原城も見えるかも、と期待を膨らませていましたが、結局、街道筋からは、捉えることは出来ず仕舞いとなりました。

 

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※お城のような容姿のういろう店。

 

 小田原城

 小田原城は、街道の左手奥に佇みます。以前訪れた時、少し高台のようなところに、天守閣があったような記憶があって、離れていても、その姿は見えるものと思い込んでいたのです。

 小田原と言えば、小田原城。別の機会に撮った写真をご覧いただければと思います。

 

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※北側から見た小田原城

 

 旧街道

 国道は、この先で、一旦左に曲がります。そして、さらに右方へと進路を変えて進むのです。

 一方で、街道は、左折をせずに直進です。この先しばらく、旧市街地の建物が、軒を連ねる旧道の道を歩きます。

 国道と別れる辺りには、幾つかの、木造の建物がありました。その一つが、「小田原宿なりわい交流館」。私たちが通った時は、閉じられていましたが、宿場町の情報などが入手できるような施設です。

 

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※小田原宿なりわい交流館。

 小田原宿について

 小田原宿は、東海道53次の宿場のなかでも、有数の規模を誇っていた様子です。街角に置かれていた説明板には、次のような記載がありました。 

 

 「江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80Kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。東は徒歩渡り(かちわたり)(10月から3月の間は橋が架けられていました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。」

 

 江戸から80Kmの行程を、わずか1泊で歩き進んで、小田原が2泊目になるという強行軍。駅伝ならまだしもと思いつつ、一般人が歩くには、相当過酷なスピードです。その昔、人々は、よほどの健脚だったということです。

 

 小田原空襲

 旧市街地の街道を歩いていると、道端に、「8月15日の小田原空襲」と記された、説明板がありました。

 記載によると、ここ小田原が空襲を受けたのは、1945年8月15日の深夜1時か2時の頃。この日は、誰もが知る、敗戦の日そのものです。直前に、熊谷市と伊勢崎市が攻撃を受け、米軍の帰還途中に、小田原が標的になったのです。

 約400軒の家屋が壊れ、12人が亡くなるという悲劇。おそらく、宿場町の姿を残した建物なども、その巻き添えになったことでしょう。

 

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※小田原空襲の説明板。

 困難な歴史を乗り越えて、今は、整然とした街並みが続きます。私たちは、小田原宿の後半に差し掛かり、かまぼこや干物のお店などが軒を連ねる、”かまぼこ通り”を進みます。

 

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※左、かまぼこ通りのはずれ。右、かまぼこ通りを終え、国道1号線と合流する地点。