旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]92・・・小田原宿へ

 相模路

 

 箱根湯本を過ぎた後、街道は、比較的平坦な道を進みます。これからは、相模の国の名所をつないで、一路、武蔵の国を目指します。先ず訪れるのは東海道53次の9番目の宿場町、小田原です。

 小田原は、戦国時代に、北条早雲が治めた城下町。豊臣秀吉の城攻めは、有名なお話しです。関東の入口の要衝として、箱根山を西に睨んだこの場所は、地勢的には、大変重要な場所だったのだと思います。

 小田原を押さえた秀吉は、その後、奥州をも平定し、天下統一を成し遂げることになるのです。

 

 

 入生田(いりゅうだ)へ

 早川の三枚橋を越えたところを右折して、少しの間、国道1号線の歩道上を歩きます。この道は、東から箱根を目指す人たちが、主に利用している幹線道路。交通量も頻繁です。

 しばらく歩くと、国道は、高架道路への坂道と、旧来の国道の道に分かれます。街道は、右手に高架道路を眺めながら、左側の道筋へ。高架道路は、湘南海岸を突き進む、西湘(せいしょう)バイパスを始めとした自動車専用道路に接続し、旧道は、小田原の市街地へと向かうのです。

 その後、旧国道に入った先で、街道は、さらに左の旧道に入ります。

 

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※国道から分かれた旧道。

 

 旧道沿いは、古くからの集落の様相です。道沿いには、民家がまばらにつながって、時折、左上に、箱根登山鉄道の軌道敷が迫ります。

 のどかな里の集落を進んだ後で、街道は、一旦旧国道に入ります。そして、再び左に延びる旧道へ。この辺りが、箱根町小田原市の境界になるようです。

 

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※左、国道の歩道。(少し高いところも通ります。その先で左の旧道へ。)右、旧道の様子。

 入生田駅

 箱根登山鉄道の踏切を越え、小田原市入生田の町中に入ります。狭い幅の道沿いに、民家が張り付く入生田の町。道なりに進んだ右手には、入生田駅がありました。この地の名前は入生田(いりゅうだ)ですが、なぜか駅は入生田駅(いりうだえき)。それぞれに、それなりの理由があるのでしょう。

 私たちは、この日の朝、箱根の関所近くを出発し、一気に山道を駆け下り、夕刻に、ここ入生田駅に到着です。14Kmほどの行程を終え、電車に揺られて、この日の宿泊地へと向かいます。

 

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入生田駅

 

 風祭

 一夜明け、少し遅い時刻に、入生田駅に舞い戻り、再び街道歩きを続けます。

 先ず、静かに佇む、入生田の町中を歩きます。この辺りには、民家が道沿いに建ち並び、人々の生活感が伝わるようなところです。

 

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※入生田の町並み。

 

 狭い道を、数百メートル進んでいくと、左手に、美しく手入れされた、木々が植わる斜面が現れ、そこには、箱根病院を案内する表示板がありました。ここは、風祭(かざまつり)というところ。箱根登山鉄道風祭駅もすぐ近くにあるようです。

 

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※風祭にある箱根病院前。左の丘の上に病院はあります。

 

  箱根病院は、小高い丘の上にあり、街道は、丘の裾野を通ります。この先しばらく、静かな住宅地の中を通過しますが、時折、お家の前に、柑橘類を販売する、無人の棚が置かれていて、果物の豊かな収穫地であるということを、実感したものでした。

 

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※左、風祭駅。右、風祭の町並み。

 街道は、緩やかに弧を描きながら、民家が連なる町中を進みます。やがて、右方向に大きく曲がると、その先に小田原厚木道路の高架道路が横切ります。高架下へと足を向けると、箱根登山鉄道の踏切です。

 

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※自動車専用道路の高架下。踏切を渡り、国道1号線に入ります。

 

 小田原板橋

 踏切を渡った先は、旧来の国道1号線。私たちは、左に折れて、しばらく、国道の歩道を歩きます。

 この辺りの道筋は、右に早川が相模湾をめざして河道をつくり、左手は、山際に敷設された、箱根登山鉄道の軌道が走っています。わずかに開けた狭隘な土地を辿って、街道は、小田原へとつながっていくのです。

 

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※小田原に向かう国道と箱根登山鉄道

 

 国道を進んで行くと、やがて、上板橋の交差点を迎えます。この先、国道は真っすぐに延びて行きますが、街道は、左側の細い道に入ります。

 この先の500mほどの区間は、街道と国道は別々のルートを辿ります。その後、二つの道は再び合流することになるのです。この、500mほどの間の町は、板橋と呼ばれています。中山道の宿場町、東京の板橋と、その名前は同じです。

 

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上板橋交差点。左に向かう道が街道。

 

 板橋の町に入ると、何かしら歴史の香りを感じます。地蔵堂を始めとした、幾つかの寺院などが、左手の山の斜面に点在し、家並みも植栽が施され、落ち着いた雰囲気の空間が広がります。道はやがて、大きく右にカーブして、その先は、真っすぐな直線道路。

 途中、内野邸と表示された土蔵造りの建物は、中々立派で珍しく、街道の雰囲気を盛り上げます。この建物は、元は、醤油醸造経営者の住宅だったということです。

 

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※板橋の町並み。写真中央の建物が内野邸。

 街道は、やがて正面に、東海道新幹線の高架を捉えます。その後、高架下を潜った先で、緩やかに右方向に屈曲し、国道1号線との合流地点に達します。

 

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※新幹線の高架を捉えた街道。

 板橋見附

 街道が、国道と合流した地点には、板橋(上方)口と表示された説明板がありました。この地点の位置づけを紹介するため、その内容に少し触れさせて頂きます。

 

 「戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。この辺りは、東海道に対する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所です。江戸時代においても、この口から内側は城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、・・・厳重な構造をもっていました。」

 

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※板橋見附交差点。街道はここを左折します。

 

 板橋見附の交差点を左折すると、いよいよ、小田原の宿場町。小田原城を遠巻きにして、街道は、続きます。