下北は、青森県の北東にある、斧のように突き出した半島です。最北端は西側の大間崎。ここは、北海道の松前より、緯度的には北の位置にあたります。
津軽とともに、気候的には厳しい土地でありながら、人々は、たくましく、新たな時を刻んでいるように感じます。
下北へ
浅虫温泉から、東に向かうと、野辺地(のへじ)の町に入ります。下北へは、そこから国道伝いに、一気に北へと進むのです。
鉄道も、JR大湊線が陸奥湾に沿って北上します。辺りの様子は、小さな農地もありますが、雑木林が点在し、自然のままとも感じられる、荒涼とした景色が続きます。
やがて、左手に陸奥湾の姿を捉えると、下北の中心地、むつ市の街に近づきます。むつ市は、私が学生の頃も訪れたところです。その頃聞いていたのは、この街は、2つの町が合併してできた市だということです。
その当時、市街地は、少し離れた位置に分かれていたような気がします。今回、再び訪れた時の印象は、街はそこそこ連担している様子です。時代が進み、ひとつのまとまりのある市街地へと、移り変わったのかも知れません。
私たちは、街の入り口近くに差し掛かり、先ずは、下北水産センターや卸売市場を訪れました。名産のホタテの刺身は新鮮で、ぜひとも味わって頂きたい逸品です。
※下北水産センターに隣接する卸売市場とホタテの定食。
斗南藩(となみはん)
下北は、福島の会津藩が戊辰戦争に敗退し、新天地として領地を充てがわれたところです。冬の寒さを耐え忍び、この地で、何とか再興を期すことになったものの、食糧の調達などには大変な苦労がありました。
この、会津藩のことについては、次回に、少し触れたいと思います。私たちは、次の目的地の恐山に行く途中、会津の人が斗南藩の藩庁を設置した、街中の円通寺を訪れました。
恐山へ
円通寺を出た後は、道はすぐに市街地を離れます。次第に坂の勾配も増してきて、遂には山道へと変わります。
恐山(おそれざん)は、むつ市の市街地の北西側、およそ10Kmほどのところです。釜臥山(かまぶせやま)の北の斜面をすり抜けて山道を進みます。急坂を上り進んで、峠のようなところを通り過ぎると、今度は急勾配の下り坂。坂道を下りきったところが宇曽利湖(うそりこ)という湖です。
湖畔には、朱塗りの欄干が鮮やかな、太鼓橋が架かります。下を流れる小さな川は、三途の川。ここを過ぎると、あの世への道なのか、辺りには、厳かな空気が流れています。
※左、太鼓橋。右、奪衣婆(だつえば)と縣衣翁(けんねおう)の像。
恐山
三途の川を越えてから、数百メートル進んで行くと、恐山の霊場の駐車場に入ります。霊場は、駐車場の右奥で、その手前には、土産物店などもありました。
※恐山駐車場と総門。
恐山は、地理的には、宇曽利湖を中心とした周辺地域を指すようです。そもそも、この辺りは、火山のカルデラ状になっていて、すり鉢状の地形です。その一角に、観光地で有名な、霊場恐山があるのです。
”恐山”の地名については、司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、「恐山のオソレは、宇曽利のウソリから転訛した。もとはアイヌ語だったにちがいない。」と記したように、恐山は、宇曽利湖と共に在るのです。北海道にほど近いこの土地は、アイヌの文化も、そのどこかに引き継がれているのだと思います。
霊場恐山
霊場恐山は、正面の総門から入ります*1。総門をくぐった先には、勇壮な山門が、正面に構えています。真っ直ぐ続く参道の、左に見える赤い屋根の建物が本堂で、右側に連なっている建物が寺務所だということです。
※正面が山門。
山門をくぐると、正面奥には、立派なお御堂がありました。このお御堂は、地蔵殿と呼ばれていて、本尊の地蔵菩薩を祀っています。通常の寺院であれば、本堂にあたる位置。地蔵殿こそ、この霊場の最も重要な施設なのだと思います。
地蔵殿の左には、岩が露出したような、荒涼とした丘が広がります。”地獄”と呼ばれるその場所からは、水蒸気があがる様子も窺えます。
私たちは、先ずは、地蔵殿に参拝し、次いで、地獄へと向かいます。
※地蔵殿と境内。
恐山の歴史
霊場恐山のことについて、少し触れておかなければなりません。入山時に頂いた資料によると、「今からおよそ千二百年前の昔、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さまによって開かれた霊場です。地蔵菩薩一体を自ら彫り、霊場の本尊とされました。」とのこと。
遣唐使として、大陸で多くを学ばれた慈覚大師は、帰国後、各地を巡り歩かれたということです。そして、この恐山に足を踏み入れ、開山された訳ですが、「この地は、宇曽利湖を中心に八峰がねぐり、その形あたかも花開く八葉の蓮華にたとえられ」るような印象を抱かれたのだと書かれています。
「また火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞらえられ、信仰と祈りの場として伝えられて」きたようです。
※地獄の風景。
イタコ
恐山と言えば、イタコのことを連想される方も多いでしょう。イタコは、巫女のような姿をして、亡くなった人の霊を呼び込む、呪術(じゅじゅつ)家のような人のこと。自らがその霊に成り代わり、説教などを行います。
恐山では、このイタコの方を観られるかと、期待をしていましたが、今では、特別な時しか来られない様子です。結局、その姿を拝むことは出来ず仕舞いとなりました。
私たちは、硫黄臭が漂う中で、地獄めぐりを行って、宇曽利湖のほとりにある、極楽浜へと向かいます。
※極楽浜の様子。
今も多くの人たちが、「死ねばお山に行く」と信じておられるようですが、その「お山」のひとつが、恐山の霊場でもあるようです。資料にも、「肉親の菩提を弔い、故人の面影を偲ぶ多くの人が、今もお山をめざします。」と記されているように、恐山は、どこか、黄泉の国に最も近い場所なのかも知れません。