旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ14・・・下北半島(1)

 下北半島

 

 下北は、青森県の北東にある、斧のように突き出した半島です。最北端は西側の大間崎。ここは、北海道の松前より、緯度的には北の位置にあたります。

 津軽とともに、気候的には厳しい土地でありながら、人々は、たくましく、新たな時を刻んでいるように感じます。

 

 

 下北へ

 浅虫温泉から、東に向かうと、野辺地(のへじ)の町に入ります。下北へは、そこから国道伝いに、一気に北へと進むのです。

 鉄道も、JR大湊線陸奥湾に沿って北上します。辺りの様子は、小さな農地もありますが、雑木林が点在し、自然のままとも感じられる、荒涼とした景色が続きます。

 

 むつ市

 やがて、左手に陸奥湾の姿を捉えると、下北の中心地、むつ市の街に近づきます。むつ市は、私が学生の頃も訪れたところです。その頃聞いていたのは、この街は、2つの町が合併してできた市だということです。

 その当時、市街地は、少し離れた位置に分かれていたような気がします。今回、再び訪れた時の印象は、街はそこそこ連担している様子です。時代が進み、ひとつのまとまりのある市街地へと、移り変わったのかも知れません。

 

 私たちは、街の入り口近くに差し掛かり、先ずは、下北水産センターや卸売市場を訪れました。名産のホタテの刺身は新鮮で、ぜひとも味わって頂きたい逸品です。

 

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※下北水産センターに隣接する卸売市場とホタテの定食。

 斗南藩(となみはん)

 下北は、福島の会津藩戊辰戦争に敗退し、新天地として領地を充てがわれたところです。冬の寒さを耐え忍び、この地で、何とか再興を期すことになったものの、食糧の調達などには大変な苦労がありました。

 この、会津藩のことについては、次回に、少し触れたいと思います。私たちは、次の目的地の恐山に行く途中、会津の人が斗南藩の藩庁を設置した、街中の円通寺を訪れました。

 今回は、円通寺の外観だけを紹介し、霊場恐山に向かいます。

 

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斗南藩の藩庁が置かれていた円通寺

 

 恐山へ

 円通寺を出た後は、道はすぐに市街地を離れます。次第に坂の勾配も増してきて、遂には山道へと変わります。

 恐山(おそれざん)は、むつ市の市街地の北西側、およそ10Kmほどのところです。釜臥山(かまぶせやま)の北の斜面をすり抜けて山道を進みます。急坂を上り進んで、峠のようなところを通り過ぎると、今度は急勾配の下り坂。坂道を下りきったところが宇曽利湖(うそりこ)という湖です。

 湖畔には、朱塗りの欄干が鮮やかな、太鼓橋が架かります。下を流れる小さな川は、三途の川。ここを過ぎると、あの世への道なのか、辺りには、厳かな空気が流れています。

 

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※左、太鼓橋。右、奪衣婆(だつえば)と縣衣翁(けんねおう)の像。

 恐山
 三途の川を越えてから、数百メートル進んで行くと、恐山の霊場の駐車場に入ります。霊場は、駐車場の右奥で、その手前には、土産物店などもありました。

 

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※恐山駐車場と総門。

 

 恐山は、地理的には、宇曽利湖を中心とした周辺地域を指すようです。そもそも、この辺りは、火山のカルデラ状になっていて、すり鉢状の地形です。その一角に、観光地で有名な、霊場恐山があるのです。

 ”恐山”の地名については、司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、「恐山のオソレは、宇曽利のウソリから転訛した。もとはアイヌ語だったにちがいない。」と記したように、恐山は、宇曽利湖と共に在るのです。北海道にほど近いこの土地は、アイヌの文化も、そのどこかに引き継がれているのだと思います。

 

 霊場恐山

 霊場恐山は、正面の総門から入ります*1。総門をくぐった先には、勇壮な山門が、正面に構えています。真っ直ぐ続く参道の、左に見える赤い屋根の建物が本堂で、右側に連なっている建物が寺務所だということです。

 

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※正面が山門。

 山門をくぐると、正面奥には、立派なお御堂がありました。このお御堂は、地蔵殿と呼ばれていて、本尊の地蔵菩薩を祀っています。通常の寺院であれば、本堂にあたる位置。地蔵殿こそ、この霊場の最も重要な施設なのだと思います。

 地蔵殿の左には、岩が露出したような、荒涼とした丘が広がります。”地獄”と呼ばれるその場所からは、水蒸気があがる様子も窺えます。

 参道の左右には、バラック建の建物が。これが、共同浴場です。

 私たちは、先ずは、地蔵殿に参拝し、次いで、地獄へと向かいます。

 

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※地蔵殿と境内。

 

 恐山の歴史

 霊場恐山のことについて、少し触れておかなければなりません。入山時に頂いた資料によると、「今からおよそ千二百年前の昔、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さまによって開かれた霊場です。地蔵菩薩一体を自ら彫り、霊場の本尊とされました。」とのこと。

 遣唐使として、大陸で多くを学ばれた慈覚大師は、帰国後、各地を巡り歩かれたということです。そして、この恐山に足を踏み入れ、開山された訳ですが、「この地は、宇曽利湖を中心に八峰がねぐり、その形あたかも花開く八葉の蓮華にたとえられ」るような印象を抱かれたのだと書かれています。

 「また火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞらえられ、信仰と祈りの場として伝えられて」きたようです。

 

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※地獄の風景。

 

 イタコ

 恐山と言えば、イタコのことを連想される方も多いでしょう。イタコは、巫女のような姿をして、亡くなった人の霊を呼び込む、呪術(じゅじゅつ)家のような人のこと。自らがその霊に成り代わり、説教などを行います。

 恐山では、このイタコの方を観られるかと、期待をしていましたが、今では、特別な時しか来られない様子です。結局、その姿を拝むことは出来ず仕舞いとなりました。

 

 私たちは、硫黄臭が漂う中で、地獄めぐりを行って、宇曽利湖のほとりにある、極楽浜へと向かいます。

 

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※極楽浜の様子。

 

 今も多くの人たちが、「死ねばお山に行く」と信じておられるようですが、その「お山」のひとつが、恐山の霊場でもあるようです。資料にも、「肉親の菩提を弔い、故人の面影を偲ぶ多くの人が、今もお山をめざします。」と記されているように、恐山は、どこか、黄泉の国に最も近い場所なのかも知れません。

 

 

*1:霊場への入山料は500円。これで、中にある温泉にも入れます。