旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ12・・・津軽半島(4)

 津軽平野

 

 津軽平野の中心は、半島の付け根に位置する五所川原。ここから南に向かったところが、岩木川の上流にある、津軽藩の拠点の街、弘前です。弘前の、少し手前を東に向かうと、青森県の中心地、青森市方面で、五所川原から西に向かうと、日本海沿岸の、鰺ヶ沢能代へとつながります。

 北向きの、津軽半島の方面へは、ストーブ電車で有名な、津軽鉄道が走ります。太宰治の故郷の、金木(かなぎ)の町もその沿線の町のひとつです。*1

 津軽鉄道の終着駅にほど近い、金木の町。その町中には、今も、太宰の生家が残ります。

 

 

 十三湖

 小泊の次に向かったところは、十三湖(じゅうさんこ)。津軽半島の西海岸の中ほど辺り、少し内側に陸地が窪んだところです。ひっそりと佇むこの湖は、西は日本海に間口を開き、塩水と淡水が入り混じる汽水湖です。

 

 西海岸の国道を、しばらく南に向かっていくと、県道との分岐点。国道は、大きく左に迂回して、津軽平野の中心部へと近づきます。

 私たちは、分岐点を右方向に入ります。防風林がつながる道を、さらに南に進んでいくと、やがて、左側に十三湖が現れました。

 どこか寂し気な湖は、北の国の風景の象徴のようにも感じます。

 

f:id:soranokaori:20220118151517j:plain

十三湖と中の島。

 

 十三湖の名の由来

 私が、かつて、津軽の旅をしていた時には、十三湖という名前の由来は、13の湖があるからだと、思い込んでいたものでした。実際に、十三湖の南には、池や沼が点在し、湿地のような状態です。ところが、その認識は、全くの見当違い。

 司馬遼太郎は、語源からの推測として、『街道をゆく』の中で、次のように綴っています。

 

 「トサはアイヌ語だという。トサに十三という漢字をあてたものの、十(と)は和訓で、三(さ)は漢音であることが、江戸時代の津軽知識人にとってあるいは気に食わなかったのかもしれない。いっそ漢音だけの十三(じゅうさん)とよびならわすようになったのではないか。」

 

 アイヌ語の”トサ”の意味まで、踏み込まれてはいませんが、元々は、”トサコ”と呼ばれていたようで、ひとつの有力な説だと思います。また、次に触れる十三湊(とさみなと)の町屋遺跡は、まさに”トサ”と発音するのです。

 

f:id:soranokaori:20220118151540j:plain
f:id:soranokaori:20220118151612j:plain

十三湖の風景。

 

 十三湊(とさみなと)遺跡

 十三湖の河口に架かる橋を越え、集落の中に入っていくと、その先に、十三湊の町屋の遺跡がありました。そこには、「中世十三湊(とさみなと)の町屋跡」と表示された簡単な案内板も置かれています。

 今は、砂地の畑の状態ですが、この辺りの砂の下には、14世紀末から15世紀前半頃に栄えたとされている、湊に面した大きな町が埋もれているのです。

 

f:id:soranokaori:20220117152017j:plain

※十三湊の町屋遺跡の案内板。

 

 十三湊のことについては、司馬遼太郎の『街道をゆく』の中に、少し詳しく書かれています。その一部を抜粋させていただくと、往時のこの地の繁栄ぶりが分かります。

 

 「文献的には幻に近かった中世十三湊の実像は、近年、考古学によって圧倒的な迫力であきらかになった。・・・十四世紀の室町時代、最盛期を迎えた十三湊が、本格的な都市設計のもとでつくられた中世都市だったこともわかった。都市建設の背骨は、南北をつらぬいている幅六メートルの中軸街路である。この道路が一・五キロの長さをもっていた。・・・全体として約五千人が住んでいであろうという推定もおこなわれた。中世都市としてなみなみなものではない。」

 

 十三湊は、十三湖を巧みに利用した大きな湊だったということで、北海道や日本海沿岸都市と、海上を結びながら、交易を行っていたのでしょう。

 いつの日か、姿を消した十三湊。中世の中心地でありながら、その役割は、長続きすることはなく、人々の記憶からも遠ざかっていったのです。

 

 金木へ

 北の地の湊で栄えた、都市の跡を偲んだ後は、穀倉地帯の中心地、金木の町に向かいます。

 黄金色の、収穫間近い稲穂が広がる津軽平野の真っただ中を、南へと進んで行くと、少し大きな町に入ります。そこが金木と呼ばれるところ。昭和の頃の雰囲気が感じられるような家並みも見られます。

 

f:id:soranokaori:20220119145632j:plain

※金木の町と斜陽館。

 斜陽館

 町の中心地に近づくと、赤レンガの重厚な塀とともに、立派な屋敷が現れました。

 ここが、斜陽館。太宰治の生家であり、この辺りの富豪であった、津島家のお屋敷だった建物です。斜陽館の向かい側、銀行の奥に車を停めて、屋敷の周囲を歩きます。

 

 今からもう随分と前のこと、私が大学1年生であった時にも、この斜陽館を訪れました。その頃は、斜陽館は、旅館だったと思うのですが、中に入れて頂いて、見学したことを覚えています。

 今は、周辺の町の様子は変わっていますが、建物や塀の感じは、昔のままにの状態です。懐かしい思いを抱いて、玄関前に立ちました。

 

f:id:soranokaori:20220119145841j:plain

※斜陽館の玄関前。

 

 斜陽館は、今は、太宰治記念館として運営がなされています。勿論、”斜陽”という名は、小説『斜陽』に由来していて、インパクトある名称です。

 私が学生時代に訪れた時、館の中はよく保存され、太宰治の若き日の情景が、思い浮かぶような空間でした。重厚な、屋敷の佇まいに触れながら、しばしの間、感動に浸ったことを覚えています。

 今回、私たちが訪れたのは、昨年(2021年)9月のことでした。この頃は、生憎と、新型コロナが蔓延している真っただ中。斜陽館は臨時休館の時でした。

 

f:id:soranokaori:20220119145609j:plain

※斜陽館。

 

 それでも、この地を訪れたいと思った理由は、もう一度、ありし日の太宰治に出会ってみたかった、ということに他なりません。今回の津軽の旅では、ぜひとも訪れたい場所だったのです。

 

 太宰治は、38歳で、自ら命を絶ちますが、そのわずか数年前に、故郷津軽を巡ります。小説『津軽』は、人生の最後の思い出として、この地での、忘れられない出来事を、脳裏に深く刻んでおきたかったのかも知れません。

 

*1:金木は、今は五所川原市に属しています。十三湖の辺りも五所川原市ですが、そこは、飛び地の状態になっています。