磐田の街
浜松市の東隣は、天竜川の東に位置する磐田市(いわたし)です。それほど有名な街ではないものの、サッカーのジュビロ磐田の本拠地として、知る人ぞ知る、サッカーの街でもあるのです。
この磐田市は、その昔、国分寺が置かれていて、遠江の国の中心地であった場所。江戸期には、見付の宿場が整備され、賑わいを極めていたことでしょう。
天竜川
中町通りの突き当りから、六社神社の際を通って、天竜川の堤防上へと向かいます。階段状の坂道の途中には、「舟橋木橋跡」と記された、案内標識が掲げられ、そこには、次のような記載がありました。
江戸時代には、この天竜川に橋は無く、”池田の渡し”を利用して、舟で対岸に渡っていた。明治に入り、明治天皇の行幸の時には、小舟を並べて橋の代わりとし、その後、この場所に木橋が架かり、通行が便利になった。(以上概要です)
堤防上に辿り着くと、そこからは、雄大な天竜川が見渡せます。向うの岸は遥か先。日本では、十指に入る河川です。
堤防のすぐ脇には、「天竜川木橋跡」・「舟橋跡」と記された、木製の標識もありました。余りにも広い川幅であるこの場所に、かつて、木の橋が架けられていたとは、想像もできない光景です。
※左、天竜川右岸の堤。右、堤防に上がったところ。
天竜川は、今は少し上流の、国道の橋を利用して渡ります。美しく整備された河川敷を右に見ながら、堤防道を少し北に進みます。
この位置の天竜川には、3本の橋が架かります。手前から、県道261号線、そして、国道1号線の下り線と上り線が別々の橋で渡っています。見渡すと、手前の橋はトラス構造でできた橋。この橋が県道で、その向こう側に2本の国道橋が架かります。
この3本の橋の内、歩道があるのは、真ん中の国道1号線の下り線。後の2本は、自動車専用となっていて、歩くのは危険です。
※天竜川と川に架かる橋。
対岸へ
天竜川の右岸道路を少し歩いて、県道261号線を横断すると、その先が国道1号線の下り線。ちょっとした傾斜の緑地を上ったところで、橋の歩道に入ります。
幅広いこの歩道は、気持ち良く歩ける道で、遠くの景色を眺めながら、或いは、天竜川の流れを見下ろして、対岸へと向かいます。
※国道1号線下り線の橋。右に架かるのが県道です。
天竜川を渡った後は、再び県道を横切って、少し南に下がります。元は、池田の渡しの船着き場から東海道は続くのですが、今は、北に迂回して、国道の橋を渡ってきたため、まずは天竜川左岸の起点へと戻るのです。
この辺りは、住宅と畑地が混在する、河原の名残のようなところです。細い道をすり抜けて、街道へと戻ります。
今では、磐田市の領域になるこの町も、平成の合併までは、豊田町という町でした。磐田市に隣接する、のどかな雰囲気のところです。
長森立場
旧豊田町の街道は、少し東に進んだ後で、一旦南に方向を変え、長森の立場跡(たてばあと)辺りで再び東へと向かいます。
東に向かう角地付近に据えられた、少し大きめの、説明板には、次のような記載がありました。
「長森立場(ながもりたてば)
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村(あいのむら))には、立場という、旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。明治時代以降は、人や車や馬車などの発着所、また、その乗客、従業員の休憩所となりました。ここから数十メートル東へいった所に、立つ野村字長森の立場があったと伝えられています。」
※長森立場の案内板。
この長森は、また、「長森かうやく(膏薬)」と呼ばれる塗り薬でも有名だった様子です。あかぎれや切り傷に抜群の効能があり、大名一行や旅人が買い求めていたということも、この案内板に書かれています。
東へ
街道は、時折、ゆるやかに弧をえがきつつ、概ね東を目指します。時折、東海道沿線の、案内標識なども整備され、磐田市が街道と共に発展してきた様子が窺えます。
道筋は、よく手入れされた生垣や美しい庭木が並ぶ、大きな民家が連なります。
※市街地へと向かう道筋。
街道は、やがて集落を通り過ぎ、森下という交差点で、県道261号線と合流します。浜松の中町通りに入る手前で分岐した街道は、ここで再び県道に戻ります。
道は、多くの車が往き交いますが、ところどころに、松の姿も見受けられ、街道の名残も感じます。
※県道と合流した街道の様子。
宮之一色一里塚
県道を少し進んだところには、周囲が低木で修景された、小さな塚が見えました。よく見ると、「宮之一色一里塚跡」との表示です。今は、かつての姿はないものの、一里塚の証として、後世にも語り継がれるのだと思います。
※宮之一色一里塚跡。
磐田の市街地へ
県道を、1.5Kmほど歩いた先で、街道は、街中の旧道へ。この道は、旧市街地の中の道。JR磐田駅の方向に進みます。
街道は、次第に道幅が狭まるような感じになって、古くからの町中の道へと変わります。
※県道と分かれた直後の街道。
この辺りの道筋は、両側に民家などが連なって、それこそ、昭和の雰囲気が漂うようなところです。道は狭く、少し上下りがあったような気がします。
途中には、「江戸時代の中泉絵図」という案内絵図が置かれていて、思わず、写真を撮りました。この絵図の太い道が東海道。左から右に向かう途中の位置を、今、歩いているということです。
街道は、北方向に直角に曲がることになりますが、ここを右に曲がったすぐ先が、JR磐田駅という具合です。
※磐田駅周辺の江戸時代絵図。
磐田の街
絵図にある角地のところは、今では、下の写真のとおりです。左の道から交差点に出てきた後で、街道は、奥の方、北に向かって進みます。次の宿場の28番見付宿は、ここからまだ2Kmほど先の位置。
私たちは、この日はここ磐田の街で宿をとり、翌日、見付宿から袋井宿、さらには、掛川宿へと向かうことになるのです。
※磐田の駅近く。