旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]43・・・天竜川へ

 川越えの街道

 

 浜松の宿場から先の街道は、幾つもの河川を越えて、箱根の峠を目指します。この先の川越しで、最初の難関とされていたのが、天竜川。浜松市磐田市の間を流れ、遠州の平野を二分する河川です。

 天竜川は、信州の諏訪湖をその源流として、伊那谷を削りながら天竜峡に入ります。その後、佐久間ダムを経て、三方ヶ原台地に流れ着き、遠州灘に注ぐのです。

 かつて、東海道は、この天竜川の流れに阻まれ、自力では進めない場所でした。旅人は、渡し船などを利用して、対岸と往き来したということです。

 

 

 馬込辺り

 浜松宿から真っすぐに、東に延びる街道を進んで行くと、美しく整備された小さな橋が現れます。この橋は、馬込橋(まごめばし)と名付けられ、下には、馬込川が流れています。

 馬込川は、浜松の市街地を縫うように流れ下って、中田島砂丘に注ぎ出る、街中の河川です。その昔、排水が流れ込み、水は汚れていましたが、今では随分美しくなっているような気がします。

 

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※馬込橋。

 

 街道は、依然として、整備された道路です。安全な歩道を歩いて、東へと向かいます。

 馬込橋からしばらく進むと、焦げ茶色の、高札板を模した標識が現れます。この標識は、馬込の一里塚跡の目印で、江戸から、65里(約260Km)の位置である、との説明がありました。また、この一里塚は、明治10年(1877)頃に取り壊されたということで、今では、標識のみがその存在の証となっているのです。

 

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※馬込の一里塚跡。

 

 東区へ

 一里塚から少し進むと、今度は、「東海道案内板」と記された、大きな説明板が置かれています。ここには、浜松東部の街道の見どころなどが記されていて、私たちには、ありがたい情報源となりました。

 

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※歩道際に置かれた案内板。

 

 街道は、幾つかの交差点を通り過ぎ、途中から歩道のない、街中の道へと変わります。辺りは住宅地の様相で、次第に郊外の空気が広がります。

 

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浜松市東区を通る街道。

 

 天竜川の街

 落ち着いた住宅が連なる街並みを進んで行くと、ところどころに、松の並木が現れます。長く連なる並木道ではないものの、それこそ、かつての並木の名残のように、間隔を開けて点在します。

 この辺りから右に向かったところには、JR東海道本線天竜川駅があるようです。いよいよ、遠州の大河川、天竜川に近づきます。

 

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※松並木の名残。

 

 旧道へ

 街道は、この辺りは県道で、浜松の市街地を通過して、東隣の磐田市につながります。一方で、幹線道路の国道1号線は、浜松の市街地を避け、大きく街の南を回り込み、やがてこの県道に近づきます。

 県道は、しばらくすると、この国道1号線の高架下を通り抜け、その後、2つの道は、並行して天竜川を渡ることになるのです。

 

 やがて、街道は、県道とも別れを告げて、斜め右方向の旧道に入ります。

 

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※県道と旧道との分岐。

 

 旧道に入った先は、のどかな住宅地が続きます。車も滅多に通らない、静かな雰囲気のところです。

 

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※県道から離れて旧道に入ります。

 金原明善

 落ち着いた住宅地内をさらに進むと、左側に、板塀で囲まれた、立派な屋敷が現れました。なかなか見応えのある外観で、由緒あるお屋敷の構えです。

 この屋敷、金原明善(きんぱらめいぜん)という方の生家だそうで、今は、資料館として活用されている様子です。

 金原明善とは、どのような方だったのか。資料によると、江戸末期から明治にかけて、天竜川の治水に尽力された、実業家だったということです。この方は、天竜川のみならず、日本各地で、近代化の礎を築かれた、偉人の一人でもあるようです。

 

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金原明善の生家。

 

 中町通り

 道は次第に先細るような状況で、正面は、突き当りの様子です。道の脇には、「中町通り」と記された、木製の標識があり、この辺りが「中町」と呼ばれていることが分かります。

 ただ、この先の案内には、「中野町」との表示もあって、地域としては「中野町」、通りの名前が「中町通り」ということなのかも知れません。

 

 突き当りの街道は、右手に沿って、坂道を上ることになりますが、この堤こそ、天竜川の堤防です。

 街道は、遠州の大河川、天竜川の渡しの拠点に到着です。

 

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※中町通り。

 浜松餃子

 少し話はそれますが、中町通の突き当り辺りの左手に、小さなお店がありました。上の右側の写真にも、少し写っていると思うのですが、そのお店の名前は「餃子の店かめ」。浜松餃子専門のお店です。

 せっかく浜松に足を踏み入れ、餃子を食べない手はないと、この店で昼食をとりました。ただ、さすがに餃子専門のお店です。メニューは、餃子しかなかったように思います。

 いずれにしても、おいしく浜松餃子を頂けたのは、幸運なことでした。

 

 東海道の中間点

 餃子を頂き、店を出て、天竜川の堤下に向かいます。中町通りの突き当りになるその先は、六所神社の境内です。そして、突き当りのところには、まだ新しい、木製の高札板がありました。

 そこには、非常に興味ある内容の話が綴られていましたので、その記事を、少し紹介したいと思います。

 

 「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。十辺舎一九の東海道中膝栗毛にも、『舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし』と記されています。この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわいの場とする人々で活気があふれていました。」

 

 このように、この地点は、早や、東海道の中間地点だったのです。

 

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六所神社と案内板。

 

 天竜川へ

 東海道の中間点は、まだ先のこと、とばかり思っていましたが、突然このような案内を目にした時には、不思議な感激を味わったものでした。*1

 足取りも、何となく軽くなったような気がして、一気に天竜川の堤の坂を上ります。

 

*1:後にも記載することになると思いますが、実際の東海道は、60里+60里=120里、ではなく、もう少し長い距離なのです。時代によってルートが変わり、距離も前後したのかも知れません。中山道には、地理的な、実際の中間点の証が置かれていますが、東海道にはありません。何か理由があるのでしょう。