旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]18・・・大神神社

 大物主神(おおものぬしのかみ)

 

 三輪山の麓に佇む大神神社(おおみわじんじゃ)。神話にも登場する、大物主神をお祀りした古代からの社です。

 前々回に紹介した、天照大神と倭大国魂(以下に登場する大神神社の御祭神”大物主神”と同一)の2つの神。当初は共に、崇神天皇*1の宮中でお祀りしていたようですが、世の中が、疫病や反乱で混乱する中、天皇は、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託すことにして、先に訪れた桧原神社に祀ります。そして、倭大国魂(大物主神)は、渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみとと)を司祭者として、別々に祀ることになるのです。

 

大神神社拝殿。

 

 ところが、世の中の混乱は治まることはありません。そのために、崇神天皇は、占いに頼ることになりました。この時の占いは、結構有名なお話しらしく、『古代史の迷路を歩く』(黒岩重吾)の中では、次のように描かれています。

 

 「だがやはり、疫病、反乱に対して効果がなかったと記述されている。後に大王家の皇祖神となった天照大神を祀ったのに、効果がなかったという、この記述は重要である。勿論、崇神時代に天照大神という神など出来ていないが、それはともかく、皇祖神を祀ったのに効果がなかった、という記述は『日本書紀』の編纂者が、崇神天皇家の正統な王でなかったことを知っていた事実を感じさせる。(下線の部分の意味につてはは、後に本文で触れたいと思います。)」

 「崇神はそこで、神浅茅原(かむあさぢはら)に行って、八十万(やそよろづ)の神を集めて占った。この時、有名な倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめのみこと)が神憑りになり、大物主神となって、自分を祀れ、と宣託した。崇神はいわれるままに大物主を祀ったが、それでも効果がない。そこで崇神は、何故効果がないのか、どうか夢で教えてほしい、と祈った。すると夢の中で一人の貴人が現れ、自ら大物主と称して次のように告げた。」

 「『(前略)若し吾が児(こ)大田田根子(おおたたねこ)を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たひら)ぎなむ(後略)』」

 

 こうして、崇神天皇大田田根子を探し当て、この人を司祭者として大物主を祀ったところ世の中は平定した、というのです。

 「蛇であり、火であり、水でもあった・・・古代人の理想神」の大物主神倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)との間で繰り広げられたお話は神話の域を出ない、と思うのですが、先の下線部にあるように、ここから、重要な史実を探ろうとする黒岩重吾の洞察力には、敬服するしかありません。

 

 

 大神神社(おおみわじんじゃ)

 山の辺の道の道筋は、狭井神社(さいじんじゃ)を過ぎた後、木々が覆う砂利道の参道となり、大神神社へと導きます。

 この参道は、三輪山の裾野伝いに南へと向かう道。やがて、大物主神をお祀りする、大神神社の北側面に至ります。

 

大神神社の北側面に達した山の辺の道。

 左手には、新しい階段が整備され、その奥に神社拝殿の大屋根が覗いています。私たちは、石段を利用して、境内の中心部へと向かいます。

 

大神神社の中心部と拝殿。

 

 原初の神祀り

 石段を上った先は、大神神社の中心部。正面には、立派な拝殿が構えています。

 そして、拝殿脇には、新しい木製の説明板。そこに書かれた内容を、少しだけ紹介したいと思います。

 

 「遠い神代の昔、大己貴神大国主神)が自らの・・・和魂(にぎたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、御神体三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている、我国最古の神社であります。」

 「大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神を”おおみわ”と申し上げるように、神様の中の大神様として尊崇され・・・」

 

 普通、”大神神社”は”おおみわ”とは読めません。この説明書きを読んで初めて、理解することができました。

 

大神神社拝殿前の説明板。

 

 本来の王

 さて、冒頭で紹介した、黒岩重吾の洞察力。倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の神託を受け、ようやく、世の中が平定したことについて、作者は、『古代史浪漫紀行』の中で、次のように記しています。

 

 「この説話を読むと、初期大和王権というのは、明らかに祭政一致の国であったことがはっきり出ていることです。初期大和王権邪馬台国の性格を受け継いでいることがわかります。」

 「・・・いちばん大事なのは、倭迹迹日百襲姫は祭り事によって、崇神という王に対して命令する力があった、ということです。

 

 このようなことから、当時の王といえども、巫女的性格を持つ人の上に立つことはなかった。つまり、冒頭で引用した文中、「崇神天皇家の正統な王でなかったことを知っていた事実を感じさせる。」という表現が、導き出されてくるのです。

 

 古代の歴史の中心地、三輪山の麓の道を歩きつつ、また、幾つかの神社を辿り歩いて日本の国の原点を体感することになりました。

 

 三輪素麵

 山の辺の道の道筋は、三輪神社の拝殿横を南へと進むのですが、時間は丁度お昼時。私たちは、神社正面に延びている、参道を下り歩いて、正面鳥居へと向かいます。

 

※鳥居を出たすぐ左、鳥居に向かって右にある食堂。

 鳥居を過ぎた左には、何軒かのお店が並んでいます。店頭に置かれたメニューには、有名な三輪素麺の写真です。三輪に来て、三輪素麺を逃しては、”たたり”があるかも知れないと、美味しい素麺をいただくことになりました。

 

三輪素麺と柿の葉寿司。

 

*1:崇神天皇は第十代天皇ですが、史実はこの天皇から始まると考えるのが通例のようです。