旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]15・・・栗橋宿と栗橋関所

 利根川の渡し

 

 街道は、栗橋宿のすぐ先で、利根川を渡ります。今は、国道に架かる利根川橋で対岸へと向かうのですが、かつては、舟でこの川を越えました。”房川の渡し”と呼ばれた利根川越しは、栗橋宿と、対岸の中田宿とを往き来する、重要な交通手段だったのです。

 ただ、大きな河川の川越しは、ひとたび大水が出た時は、その機能を止めてしまいます。旅人は、何日も足止めを食うことになり、水が引くまで、宿場での逗留を余儀なくされたのだと思います。

 平時であれば、一刻も早く通り過ぎたい川越しですが、こんな時は、栗橋宿や対岸の中田宿は、身動きができない旅人たちで、大賑わいだったことでしょう。

 

 

 旧道

 街道は、シアター栗橋を右に見て、国道から旧道に入ります。この道は、最初の内は下り坂。坂の途中の、鎮守の森を通り過ぎ、ひとつの集落へと向かいます。

 その後、道は、大きく弓なりに湾曲し、集落内を通過して再び国道に近づきます。

 

※大きく湾曲しながら集落内を進みます。

 

 国道が視野に入った辺りでは、道は、2方向に分かれます。右側の上り坂は、国道へと向かう道。街道は、ここを左先の方向へ。

 道が分かれる分岐点には、木杭が置かれ、「会津見送り稲荷」の表示です。詳しくは分かりませんが、ここには、会津藩士にちなんだ話が語り継がれているようです。

 

※道の分岐点。左方向が街道です。

 

 栗橋宿へ

 分岐した街道を真っ直ぐに進んでいくと、道路下を潜り抜ける、トンネルに入ります。

 

※土盛り道路の下を潜り抜けます。

 

 トンネルを潜った先は、ちょっとした住宅地。新しく開発された、団地の中に入ります。

 街道は、開発により、道の流れも変わった様子。少しだけ、区画された道を辿って、旧来の集落へと向かいます。

 

※開発された住宅団地を通ります。

 

 栗橋宿

 街道は、その先で、落ち着いた雰囲気の道筋に変わります。真っ直ぐ延びる道沿いには、敷地の広い住宅が並んでいます。

 地図で確認したところ、かつての栗橋宿は、この辺りから始まっていたようです。直線状に延びる道は、道幅もそこそこあって、宿場町の面影はありません。それでも、利根川の堤が近づく町は、どことなく、街道の空気が漂います。

 

※栗橋宿の様子。

 栗橋宿は、直前の幸手宿から、およそ8キロの地点です。かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は25軒ありました。

 ただ、冒頭でも触れたように、利根川の増水時には、たくさんの旅人が押し寄せてきたはずの宿場です。そんな時は、どのように対処されていたのでしょう。臨時的な旅籠なども設けられたのかも知れません。

 

 炮烙地蔵(ほうろくじぞう)

 宿場町を歩いていると、右側に、小さな祠がありました。傍に置かれた説明板には、「炮烙地蔵」と書かれています。

 このお地蔵さん、説明書きには、「栗橋宿の南端に位置する」との記述があるため、確かにこの辺りから、栗橋の宿場町は始まっていたのでしょう。

 

※ 炮烙地蔵。

 ここで、説明書きに書かれていた、炮烙地蔵の由来について、触れておきたいと思います。栗橋にかつて置かれた、日光道中唯一の関所と関わるこの地蔵。少し興味を惹かれます。

 

 「炮烙に関わる地蔵の由来として、次のような言い伝えが残されている。栗橋の関所では、関所を無断で通過した人が火あぶりの刑に処されたが、それを哀れんだ人々が供養のために建てたのが炮烙地蔵だというものである。関所が設置された宿場町にあるこの地蔵をよく表した言い伝えである。」

 「なお、炮烙とは豆などを煎るのに使う素焼きの土器のことを指すが、火あぶりの刑という意味もある。」

 

 何とも悲しいお話ですが、御法度は、厳しく取り締まる必要もあったのだと思います。

 

 私たちは、栗橋の宿場町を、さらに北へと進みます。

 



 栗橋の宿場町は、概ね、整備された道筋です。それでも、先に向かうに従って、歴史ある木造の建物も、ちらほらと目に止まるようになりました。

 右手には、もう、権現堂川の堤防はありません。この辺りでは、既に、利根川の堤に変わっているようです。

 美しく整えられた、利根川の堤の斜面は、次第に、街道との幅を狭めます。

 

 

 栗橋の関所

 栗橋宿の北の端に近づくと、利根川の堤の際に、「栗橋関所址」と刻まれた、大きな石碑がありました。

 傍に置かれた説明板には、この関所について、次のように書かれています。

 

 「栗橋関所は、日光道中利根川を越す房川渡に設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれた。関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士四人が置かれた。」

 

 実際の関所の位置は、河川のほとりだったようですが、石碑は、宿場側に置かれています。また、この石碑の位置も、利根川の堤防工事の影響で、何回も、その場所が移されているということです。

 

利根川堤防の際に置かれた栗橋関所址の石碑。

 おくのほそ道

 『おくのほそ道』の本文には、栗橋のことについては、述べられてはいませんが、同行の、曾良が記した旅日記には、次のように書かれています。

 

 「此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。」

 

 江戸深川を出たその日の夜、粕壁宿で一夜を明かした芭蕉曾良は、次の日に、この栗橋の関所を越えたことが分かります。「手形モ断モ不入」の意味は、はっきりとは分かりませんが、おそらく、「手形を持たない者は入れず」ということなのだと思います。

 

 私たちは、栗橋宿を後にして、利根川へと向かいます。今は、堤防工事の影響で、遠回りとなる仮の道。少し、損をした気分にもなりました。

 

※堤防上へと向かう遠回りの道。