旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]12・・・杉戸宿から幸手宿へ

 幸手市

 

 杉戸宿に続く宿場は、幸手宿。なかなか、”さって”とは読めないような名前です。今は、他の多くの自治体と同様に、宿場の名前が由来となって、幸手市という名の地方都市に変わっています。

 幸手市は、埼玉県の東部に位置し、南側は杉戸町、北と西は久喜市という位置関係。一方で、東側は県境となり、茨城県と千葉県の2つの県と接しています。

 どこか、幸せを感じるような都市の名前に魅せられて、幸手の宿場に向かいます。

 

 

 杉戸宿

 杉戸宿は、前の宿場の粕壁宿(かすかべじゅく)から、およそ7キロのところです。この宿場、かつては、本陣が1軒で、脇本陣が2軒設けられ、旅籠の数は46軒だったということです。

 私たちは、杉戸町の役場前を通り過ぎ、宿場の中心地に近づきます。

 道沿いには、古くからの造り酒屋の建物など、わずかながらも、宿場町の面影が残っています。

 

※伏見屋跡の建物前を通ります。

 

 この先の町並みは、概ね、新しい建物が並ぶ中、往時の名残を残す門構えなども見られます。木造の古そうな家屋なども点在し、少しでも、宿場町の雰囲気を伝えたいとの意気込が、伝わってくるようなところです。

 伏見屋を過ぎた後、しばらくすると、高札場がありました。奥を見ると、駐車場。その道沿いの一角に、この高札場が再現されているようです。

 

※街道沿いに設置された高札場。

 

 本陣跡など

 宿場町の街道をもう少し北に進むと、本陣跡地前の交差点。幾つかのお店などが建ち並び、ここが杉戸町の中心地になるようです。交差点の由来となった本陣跡は、この近くにあるよですが、注意して探してみても分かりません。結局、確認できずに、通り過ぎることになりました。

 一方で、前回触れた東部動物公園駅は、ここを左に折れた先。隣町の宮代町にある駅が、杉戸町の中心地の最寄りの駅になるのです。

 

※本陣跡地前交差点。

 

 宿場町を進んでいくと、お店などは減少し、落ち着いた雰囲気に変わります。ところどころに、古そうな木造の建物なども残っていて、わずかながらも、往時の香りを感じます。

 

※木造の建物などが残る町並み。

 

 角穀跡(かどこくあと)

 街道は、その先で、右に大きく曲がります。その、折れ曲がるところには、もうひとつ、古い木造の建物がありました。この建物、そこそこ立派なお屋敷です。

 建物の片隅には、「角穀跡/小島定右衛門邸」との表題で、この建物の説明書きがありました。ここで、少しだけ、その内容を紹介したいと思います。

 

 「宿場の特徴のひとつである町端の「枡形(ますがた)*1」、その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは、道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。」

 「創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡形の通りの「角」にある「コメ穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町(かきからちょう)や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。」

 「米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。」

 

※左、角穀の建物。右、角穀前に置かれていた説明板。

 

 国道へ

 角穀前を右に折れてしばらくすると、杉戸の宿場は終わります。街道は、その先少し直進し、やがて、国道に合流です。

 ここから先の国道は、自動車の販売会社や、郊外型の飲食店などが並んでいます。国道の両脇奥には、農地なども広がって、空が大きく開けています。 

 

※国道に合流する街道。

 

 幸手市

 しばらく進むと、歩道には、「幸手市」の標識です。街道は、杉戸町を通り終え、幸手市に入ります。

 

幸手市に入った街道。

 

 幸手市に入った街道は、国道の歩道に沿って、しばらく真っ直ぐ進みます。沿線は、相変らず、食堂や事業所が点在し、ところどころに住宅も見られるようなところです。

 幸手市のこの位置の西側(左奥)は、まだ杉戸町の領域があるようで、しばらくすると、「←杉戸高野台駅」の案内標識がありました。この駅は、東部日光線の沿線にあり、前の駅は東武動物公園駅、そして次が、幸手駅という具合。

 名前からして、駅周辺は、高台の新しい住宅地が広がっているのかも知れません。

 

 旧道へ

 国道をさらに進むと、左前方向に旧道が現れます。街道は、ここで国道と別れを告げて、旧道に入ります。

 

※上高野小入口交差点。ここを左方向の旧道へ。

 旧道の道筋は、ところどころで、弓なりに弧を描きながら続いています。しばらくすると、左手には、農地なども広がって、眺望がよいところです。遠方の山々を望みながら、心地よい風を受けて歩きます。

 

※緩やかに蛇行しながら続く街道。

 旧道を進んでいくと、首都圏中央連絡自動車道路の高架橋が見えました。街道は、この高架下を潜った後で、幸手市の中心部に近づきます。

 

首都圏中央連絡自動車道路の高架橋が見えました。

 

*1:私のブログでは、この「枡形」という言葉は、説明が必要なためできるだけ使わないようにしていますが、ここで使用されていますので、簡単にその意味を記しておきます。街道に関するHPである『人力』によると、枡形とは、「江戸時代にのはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものである。」と説明されています。