峠の風景
箱根峠は、三島と箱根の2つの宿場を、直線状につなぐ街道の最高地点。標高は、846mのところです。この峠を境にして、街道は、芦ノ湖を湛えている、箱根の盆地に向かいます。
箱根の山は、火山地帯とも言える土地。熊本の阿蘇山と同じように、カルデラを形成しています。峠は、壮大な外輪山の一角ですが、付近は、広々としています。なだらかな丘陵のようなところには、休憩所や大きな駐車場も見られます。
昔から、茶屋なども設けられていたようで、東海道膝栗毛の”やじさん”と”きたさん”も、峠茶屋で甘酒をすするのです。広大な箱根の山と裾野の斜面を眺めながら、箱根の峠を目指します。
山中城跡の側面道
山中城跡の木柱の門を左に見ながら、真っすぐ延びる街道を進みます。道沿いは、山中新田の集落で、左右に民家が並びます。石畳を模した舗装道や、広い屋敷の佇まいは、街道の雰囲気を盛り上げますが、左の民家の裏側は、山中城の廓です。
山中新田の位置づけは、江戸の時期は、街道沿いの集落だったはずですが、城郭があった時代(1560年~1570年頃)には、城下町の一部だったのかも知れません。
※山中新田を通る街道。
街道は、集落を過ぎた辺りで、左に大きく曲がります。その角地には、「史蹟 山中城跡」の石標です。おそらく、この奥が、山中城の本丸辺り。西からの敵を最後に迎える、最も高い位置の廓です。
道沿いには、鳥居なども見られるように、そこには、神社もあるのでしょう。私たちは、城跡の側面を通過する、集落の道を通り過ぎ、次の坂道へと向かいます。
※山中城の高台の付近。
山道へ
舗装道路の少し先には、道路を跨ぐ歩道橋。あまり、利用価値がないような、山の中の施設を見ながら、その先の山道に入ります。
ここから先、しばらくは、古くからの石畳の道が続きます。そして、この辺りの道沿いには、杉の木が植えられた、並木道のような道筋です。
※左、歩道橋の先で山道に入ります。右、石畳の山道。
次の坂へ
街道は、やがて、国道1号線に顔を出し、100mほどの間だけ、国道の歩道を歩きます。その後、左斜面に小さな集落が現れて、そこにつながる、国道の横断歩道を渡ります。
※国道1号線との合流地点。
横断歩道を過ぎた先は、そのまま真っ直ぐ、集落の方へと進みます。そして、途中で右折です。この辺りは、民家の畑に踏み込んでいくような道となっているため、少し気兼ねしながら歩きます。
やがて、畑地も遠ざかり、道は急な坂道に変わります。草地や土道の街道は、足場が悪く、体力の消耗とも重なって、歩く速さは失速の状態です。
※小さな集落に入った後、右折して山道へと進みます。
街道は、やがて石畳道に変わります。杉の木々が道を覆い、わずかながら下り道も現れます。ただ、ほんのわずかの優しい道も、すぐにまた、厳しい上り坂に戻るのです。
※杉木立を進む街道。
念仏石とかぶと石
街道の途中には、国道を見下ろす場所もあり、国道と平行して、旧道が通過しているのが分かります。旧道が直線状に延びる中、国道は、大きく蛇行を繰り返し、峠へと向かいます。
※峠が視野に捉えられるようになった街道。国道近くを並走します。
この先、再び山の中に入った街道は、相変わらずの坂道です。地図を見ると、幾つかの史跡などもあるようで、そこを目指して、あと一息と、疲れた体を慰めます。
山道を少し進むと、念仏石が現れます。ごく普通の、大きな岩の塊ですが、脇に置かれた解説では、岩には”南無阿弥陀仏・宗閑寺”と刻まれているというのです。旅の行き倒れの人を、宗閑寺という寺院で供養して、この碑が建てられたと書かれています。
※念仏石。
念仏石から先の街道は、少し道幅が狭まります。木々が覆う山道を、さらに進むと、今度は、かぶと石の姿が見えました。コケに覆われた岩の姿は、その形そのものが兜のような姿です。
傍に置かれた解説では、その名が、岩の姿に由来するという説以外に、次のような記載がありました。
「また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。」
どうも、前者の方が説得力があると思うのですが、真相はわかりません。東海道膝栗毛では、源頼朝にゆかりがあるともされていて、その憶測は、尽きることがありません。
ただ、この岩は、元々は、この位置から少し離れたところにあったようで、国道の拡幅工事のとき、この場に移されたということです。
※左、かぶと石に向かう街道。右、かぶと石。
接待茶屋
街道は、やがて、少し開けた場所に行き着きます。そこには、箱根旧街道の説明板や、”接待茶屋”の表示版などがありました。
かつては、この辺りにも、旅人の足を休める茶店などがあったのでしょう。もう間もなく、峠を迎える位置ですが、最後の休憩地として、重宝されていたのかも知れません。
※接待茶屋。
峠へ
街道は、この後、国道1号線に吸収されて、ほんのしばらく、国道の歩道を歩きます。そして間もなく、左方向の旧道に入り込み、甲石坂と名付けられた、峠への最後の坂道に向かうのです。
ところが、私たちが訪れた時、旧道は閉鎖中。その入り口は封鎖され、国道伝いに迂回せよとの表示です。旧道は、令和元年10月の台風19号の影響で道が荒れ、通行不能ということですが、令和3年の春になってもこの状態とは、よほどの被害だった様子です。
※左、国道に吸収された街道。右、甲石坂への旧道の封鎖状況。
この先、旧道には入れずに、残念な思いをしながら、やむを得ず、国道の歩道を進みます。
それほど急な勾配ではないものの、単調な道の調子と、迂回による距離の遠さも重なって、疲労感は倍増です。あともう一息、峠を目指して歩きます。
※峠にほど近い国道の様子。