西津軽
津軽半島の西側は、変化に富んだ風景が特徴です。竜飛岬とその少し南の地域は、険しい崖地が続きます。その後は、高台から、一気に海へと下る道。北日本海の荒波に吸い込まれるようにして、海岸線に下り立ちます。
平地に下りると、小泊という、小さな町を通過して、その先が十三湖の湖です。やがて、津軽平野に入っていくと、広大な田園地帯が広がります。ストーブ電車で有名な、津軽鉄道の軌道が走るこの土地は、厳しい冬を抱えつつ、北の地に、恵みをもたらす大地です。
竜飛の海岸
竜飛岬の高台から、坂道を下って目の前の海岸へ。そこには、小さな公園と、その先に、小さな集落がありました。
海岸線は、整備が進んではいるものの、海は、ごつごつとした岩場が広がります。
※竜飛の海岸線。
ここは、太宰治がN君と、三厩(みんまや)から徒歩で辿り着いたところです。道端の公園には、横長の少し変わった形をした、大きな石碑がありました。そこには、『津軽』の中に記された、一つの文章が彫られています。
この石碑を見た時は、故郷の文豪を誇りに思う人達の、熱い心が伝わってきたような、暖かな気持ちになりました。
※『津軽』の一文が刻まれた石碑。
『津軽』の一文
『津軽』の中の一文は、ここで紹介しない訳にはいきません。太宰治がN君と、三厩の町を出て、徒歩で海岸伝いを歩き続けて、ようやく辿り着いた、竜飛の村を目にした時の感想です。
「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」
※旧奥谷旅館と竜飛の村。
奥谷旅館
竜飛の村に並んでいた民家などの建物を、太宰治は、「鶏小舎」と形容しますが、それほど、自然厳しい最果ての村だったということでしょう。津軽平野の真ん中で、裕福な資産家の家に生を受けた太宰にとっては、まさに、天と地のような光景に写ったのかも知れません。
太宰治とN君は、この後すぐに、竜飛の旅館に入ります。その旅館こそ、奥谷旅館。今は、「龍飛岬観光案内所 龍飛館」として残っています。
この龍飛館、無料で内部が見学出来て、ひと時の間、太宰治を偲ぶことができるのです。内部には、太宰とN君の写真が置かれた部屋もあり、昭和19年の5月の半ば、この部屋で、2人が大酒を喰らった光景が、蘇ってくるようなところです。
※奥谷旅館の客室。
龍飛館では、様々な資料や写真なども見られます。特に貴重な資料としては、太宰治の名前が書かれた宿帳です。そこには、太宰治の名前の隣に、中村貞次郎との名前があって、この人こそが、『津軽』の中のN君だと、ある種、感動を覚えたものでした。
もうひとつは、古い写真の展示です。それらを見ると、戦後間もない頃の、竜飛の村の様子などが分かります。そのほかに、建物の前に立つ老婆が写った写真からは、太宰たちが訪れた時、酒の給仕をされた方なのかと、感慨深く見入ってしまったものでした。
※左、展示資料の宿帳。右、古い写真の展示。
西海岸へ
竜飛岬を後にして、私たちは半島の西側に向かいます。最初は、山道のようですが、やがて、日本海を見下ろす景色が素晴らしい、草地の崖道に出てきます。
この辺りからの眺望は、稀に見る絶景です。写真を撮る余裕があったらと、悔やみきれない思いです。
素晴らしい景色を眺めながら、坂道を一気に下ります。海岸近くに辿り着いたら、今度は海沿いの道を南下です。途中、「道の駅こどまり ポントマリ」という施設があり、そこでしばらく休憩です。
道の駅は、”折腰内(おりこしない)交流施設”との別名もあり、近くには、中泊町が整備したキャンプ場や海水浴場などもあるようです。真夏には、たくさんの人達で賑わうところなのでしょう。
※道の駅こどまり。
小泊
中泊町の中心は、おそらく、小泊というところだと思います。道の駅を越えてから、一旦、山道になった後、小泊の集落に入るのです。道は、集落内で左に折れて、再びしばらく、山間を走ります。
この小泊は、『津軽』の最後の場面に登場します。『津軽』は、太宰治が、故郷の津軽に帰省して、旧交を温めながら、各地を巡る様子を描いた名作です。その締めくくりの訪問地が、小泊というわけです。
※小泊の集落を抜けて、海に出た辺り。遠くには、岩木山が眺望できます。
たけ
太宰治が、小泊を訪ねた理由は、彼の幼少の頃の育ての親、”越野たけ”という人に会うためです。”たけ”は、太宰家の女中のひとり、太宰治の世話をする、ある種、彼の担当を勤めた人でした。
『思ひ出』には、その前半に、”たけ”の話が出てきます。「六つ七つになると思ひ出もはっきりしている。わたしがたけといふ女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。」「たけは又、私に道徳を教へた。」
太宰治の両親は資産家で、父親は国会議員にもなった人。子供の頃の太宰の傍には、両親の姿はありません。おそらくは、東京に暮らしていて、子供たちは、親戚や使用人が面倒を見ていた様子です。
そのために、太宰は”たけ”を非常に慕い、母性を抱いた人だったのだと思います。
『思ひ出』は、太宰治の切ない別れの記憶を、次のように綴ります。
「たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追ふだらうという懸念からか、私には何も言はずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。」
母親の役目を務めた、”たけ”に再び会うことが、太宰治が帰省した、最大の理由だったのかも知れません。太宰は、小泊で、”たけ”とその子どもに、何とか会うことができました。幼い時に慕った人との再会は、太宰にとって恥じらいとも言えるような、愛を感じる時だったのだと思います。