袋井の次の宿場は、26番掛川宿。掛川には、東海道新幹線の駅もあり、遠州東部の中心です。
掛川は、また、城下町としても有名で、街の中には雅な姿の天守閣がそびえます。東海道は、城下の中を東西に横断し、東に向かうと、次第に牧之原台地が近づきます。
街道から少し離れたところになりますが、掛川には、”つま恋リゾート”と呼ばれている、レジャー施設が整備され、各地から多くの人が訪れます。かつては、「ポプコン」として親しまれていた、音楽のコンテストの開催地でもあった場所。中島みゆきや八神純子など、有名なシンガーソングライターを数多く輩出し、一世を風靡したところです。
掛川宿
旧道が県道と合流した辺りから、かつての、掛川の宿場町に入ります。最初の区間は、商店や住宅が交互に並ぶ、ごく普通の街並です。ここが、宿場町であったことなど、想像もできません。
どこにでもあるような、茶色のインターロッキングが敷き詰められた、県道の歩道を歩きます。
※掛川宿の西の入り口辺り。
掛川市が発行している、「東海道五十三次掛川ウォーキングマップ」の記載によると、掛川宿は、1843年(天保14年)の記録では、本陣2軒、旅籠屋30軒、家が960軒であったということです。人口は、3443人ということで、それほど大きな宿場ではなかった様子が読み取れます。
ただ、掛川は、前回も触れたように、城下町でもあるのです。城内には、そこそこの人が住み、全体として、「防備された大きな町」*1、と形容できる規模だったのだと思います。
街道沿いには、城内から移築された城門が残るなど、宿場町と城下町が混然とした様子が窺えます。
※街道沿いにある、移築された蕗の門。
中心部
宿場町の中ほど辺りに差し掛かったところには、歴史的な意匠を凝らした、銀行の建物がありました。交差点に面したこの建物の白壁には、武将の姿が描かれて、通る人の目を引き付けます。
ここに描かれた人物は、一時期、掛川城の城主となった、山内一豊と妻の千代の姿とか。後に高知に赴任する山内一豊が、掛川城主だったということは、この時初めて知りました。
※中町交差点。
この先は、少しの間、商店街が続きます。取り立てて、特徴がある街とは感じない、昭和期の再開発の名残のようなところです。
次の交差点は、連雀西と呼ばれるところ。この交差点を挟んだ東西に、2つの本陣が構えていたということです。
ここを右に向かって少し進むと、JRの掛川駅、左に向かうと、掛川城がそびえ立つ、街中の中心の地点です。ここからお城までの間の道は、石畳風に舗装され、道を挟んで、瓦屋根と漆喰壁に意匠された、新しい建物が並びます。
観光客をもてなすために、様々な工夫が凝らされた道筋です。
城付近の風景も、写真に納めたと思っていましたが、残念ながら、今回は街道歩きが中心です。後に確認したところ、まったく撮り逃していた始末。城下の様子をご覧いただけないのが残念です。
ここは、掛川城のパンフレットをお借りして、天守の姿だけでも目にとめて頂こうと思います。
※掛川城のパンフレットから。
街道は、商店街を過ぎた後、静かな住宅地に変わります。掛川城も遠ざかり、その先で、七曲という区域に入ります。
この日の私たちの街道歩きは、この掛川で終了です。磐田市の駅前から、16Kmの道のりでした。
※商店街から先の街道。
掛川城のこと
ここで少し、掛川城の歴史について記しておきたいと思います。
掛川城は、元は、戦国時代に、駿河の今川氏の勢力を受けて築かれた城でした。しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元は敗北し、やがて、徳川家の配下に入ります。その後、豊臣秀吉が、山内一豊を掛川に配置して、城下の整備が行われたということです。
関ヶ原の戦いの後、山内一豊は高知に入る訳ですが、掛川では、幾人もの城主が入れ替わります。1600年代の中頃には、彦根藩出身の井伊家の武将も、掛川城主を務めることになりました。
前回の「歩き旅のスケッチ[東海道]」でも触れたとおり、初代の彦根藩主井伊直政の実の父、井伊直親は、この掛川の地で、当時の掛川藩主の手に掛かり、命を失ってしまいます。その出来事から数10年後、掛川城は、今度は井伊家の末裔が治めることになるのです。
1659年(万治2年)、彦根藩2代目藩主、井伊直継*2の長男である井伊直好(なおよし)が、この掛川に入ります。そして、直武(なおたけ)、直朝(なおとも)、直矩(なおのり)と、4代にわたって掛川の地を治めたということです。*3
その後も、城主が入れ替わりながら、この城は、譜代大名の居城として栄えます。そして、1854年(安政元年)、安政の東海大地震により、天守閣は崩壊してしまうのです。
城下は、被災から免れた建物により、藩政が維持されたようですが、結局、明治の時代に入った後、廃城となりました。
今ある天守は、平成6年に、140年ぶりに木造で再建された建物です。
宿場町と城下町。掛川は、2つの顔が融合しながら、遠州の東の地で、今も歴史を刻んで佇みます。
以上、掛川城の歴史の記事は、掛川城のパンフレットを引用させていただきました。一般には知られていない、掛川の一面を知ることができる資料です。