旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[北国街道]20・・・矢代宿へ

 旧更埴市

 

 更埴市(こうしょくし)の事については、ほとんど知識がありません。それでも、信州の松本市から長野市に向かう途中で、高速道路のインターチェンジにその名前があった記憶がありました。更埴市という変わった地名。そのいわれは何なのでしょう。   

 Wikipedia で調べてみると、1959年に、更級郡(さらしなぐん)稲荷山町八幡村、そして、埴科郡(はにしなぐん)埴生町と屋代町が合併して誕生した、比較的新しい街だそう。級郡の”更”の字と科郡の”埴”の字から「更埴」と名づけられたということです。

 今は、千曲市と名前を変えて、新しく船出をした旧更埴市。どのような街なのか、興味を持って歩きます。

 

 

 寂蒔水除土手(じゃくまくみずよけどて)

 旧更埴市の領域に入った街道は、住宅地を通り過ぎ、新しい家が点在する集落に入ります。

 右側から尾根が迫る山裾の道。尾根が突き出す手前には、「寂蒔水除土手」と表示された説明板がありました。その説明板の後ろには、由緒がありそうな石碑などが置かれています。

 

 「この土手は、千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693)寂蒔・鉢物師屋・打沢・小島の四か村によって築かれたものです。指導埴生本線(北国街道)と土手が交差するところは、非常時には土のうや石で道の部分を埋めて、ひと続きの土手として水害を防いだものです。当時の四か村民の水害に対する苦労と、工夫がしのばれるこの土手は、この地域にとって貴重な文化財です。」

 

 説明板に書かれた記事を読みながら、この地域にも、千曲川の洪水が襲っていたということを、改めて知ることになりました。

 

※寂蒔水除土手。

 

 芭蕉句碑

 寂蒔水除土手を過ぎた後、今度は、「浄海と芭蕉翁の碑」と記された表示板がありました。そして、ここにも、土手を思わせる石積みの名残とともに、幾つかの石碑などが置かれています。

 表示板に書かれている内容は、次の通りです。

 

 「名月や児(ちご)達ならぶ堂乃掾(えん)  翁」

 「ひと時も大事な世たれ木げ(もくげ)咲く  舟山

 「暮れて行く月日あらわに秋の山  松風」

 「翁とは芭蕉翁のこと 舟山とは戸倉の人で 宮本八朗といい 松風とは寂蒔の人で 地蔵庵主浄海という」

 

 芭蕉と信州の接点は、何と言っても更科紀行。元禄元年(1688)に、岐阜から木曽路を経て善光寺へと向かいます。その後に、北国街道を経由して追分へ。そこからは、中山道を辿りつつ、江戸への帰路につくのです。

 おそらく芭蕉はこの途中、北国街道沿線の寂蒔の村を訪れて、地元の歌人、浄海達と親交を深めたのだと思います。

 

※浄海と芭蕉翁の碑。

 

 幾つかの集落

 寂蒔(じゃくまく)の集落を過ぎた後、街道は、鉢物師屋(いもじや)、打沢の集落を通ります。これらの集落は、寂蒔水除土手の説明板にもあった場所。この辺りが一体となり、千曲川の氾濫に備えていたのだと思います。

 街道は、ゆっくりと弧を描き、これらの集落を繋いでいます。

 

※街道は、寂蒔から鉢物師屋、打沢の集落を通ります。

 

 旧来の集落から、次第に、新しい町並みに変わります。町並みが変わる辺りのところには、埴生小学校がありました。

 この先は、道も広がり、屋代の町が近づきます。

 

※埴生小学校前を通る街道。

 

 屋代

 街道は、やがて、随分と開けた町に入ります。歩道も良く整備され、区画された町並みが現れます。

 この辺り、旧屋代町の中心地だったと思われます。と、言うことは、矢代の宿場町があった場所(今は、屋代という地名ですが、宿場町の頃は矢代だったようです)。宿場町は、まだもう少し先なのか。歴史の香りが漂う場所ではありません。

 

※屋代の町の中心部に近づきます。

 

 屋代駅前交差点

 近代的な町並みを進んで行くと、やがて、屋代駅前交差点を迎えます。ホテルやちょっとしたビルも並んで、市街地を形成しているようなところです。

 

屋代駅前交差点。

 

 屋代駅前交差点から右手を見ると、しなの鉄道線屋代駅が見えました。そこそこ立派な駅舎の様子。通勤通学時間帯には、多くの乗降客で賑わっているのでしょう。

 私たちのこの日の街道歩きはここまでです。屋代の駅から宿泊地へと向かいます。

 

屋代駅の駅舎。

 

 矢代宿

 翌日は、再び屋代駅の舞い戻り、続きの行程を歩きます。

 街道は、屋代駅前交差点を通り過ぎ、さらに北へと向かいます。おそらく、この辺りから、矢代の宿場が始まっていたのだと思います。ただ、今は、全く宿場町の面影はありません。

 街道も、整備された綺麗な道路。道沿いには、新しい住宅が軒を連ねて並んでいます。

 

※屋代の宿場が始まる辺りでしょうか。今は新しい住宅地の様相です。

 

 須須岐水神社

 かつての宿場町を進んで行くと、正面に、立派な鳥居が見えました。街道は、この先、神社前を右折してすぐ左折する、いわゆる、枡形の状態です。

 この枡形がある位置に、ひとつの神社が位置しています。

 

※ 須須岐水神社が正面に見えます。

 

 この神社、須須岐水神社と呼ぶようです。立派な鳥居のところには勇壮なしめ縄が架かっています。奥には、大きな社殿も見えて、きっと由緒ある神社なのだと思います。

 ただ、私たちは、今回は立ち寄らず、宿場町の枡形へと進みます。

 

 須須岐水神社と枡形(クランク状の道)に入る街道。