2つの宿場
街道は、田中宿に入ります。そして、そこからおよそ2キロのところに、もう一つの宿場町、海野宿(うんのじゅく)が位置しています。田中宿と海野宿、運命的なつながりを持つ2つの宿場は、互いに助け合いながら宿場町の運営を行ってきたということです。海野宿資料館を訪れて、初めて知った2つの宿場の関係は、およそ次のようなものでした。
元々、田中宿は、江戸時代の初めの頃に築かれた宿場です。ところが、1742年、大洪水が発生し、千曲川流域全体が大被害を被ることとなりました。特に、田中宿は、烏帽子山麓にある所沢川の鉄砲水でほとんどが壊滅状態になったとか。多くの人が亡くなって、たくさんの家屋が流失したということです。
そのために、田中宿が行っていた宿場の機能を、隣接する海野の地に移すことになりました。それでもその後、田中宿は、復活を果たします。18世紀後半には、海野宿と協力し、宿場町の運営を再開することになるのです。その時の宿場の規模は、茶屋が6軒、商家が14軒、そして、旅籠が10軒あったとか。ところが、再び災難が襲います。1867年、時は幕末の頃ですが、田中宿全体に大火が襲いかかるのです。
今の2つの宿場を見れば、そんな歴史も、なるほどと頷けるところがあるようです。新しい街並みが続く田中宿。伝統的な家屋が残る海野宿。全く正反対の景観が、訪れる人を待ち受けているのです。
※田中宿から海野宿を経て大屋駅へと向かいます。
田中宿
常田南交差点を渡った先は、整然とした街並みが続きます。新しく整備された街ですが、沿線は一般の民家が中心です。ところどころにお店なども見られるものの、数はそれほど多くありません。
この街並、かつての田中宿だったところです。ただ、今ではその面影を全く見ることはできません。わずかに、歩道際に設置されたモニュメントの表示だけが、ここが田中宿であったことを伝えています。
※田中宿の様子。モニュメントには、田中宿の表示です。
田中宿の街並みを、もう一度、ご覧いただきたいと思います。全体的に、全く新しい街並みが作られてはいるものの、中には、街道筋の雰囲気を醸し出す、白壁の民家なども見られます。
道は広々とした片側1車線の道路が走り、余裕のある歩道が続いています。飛び飛びではありますが、街路樹は、街に落ち着きを与えていますし、切妻の大屋根を持つ家屋なども見受けられ、何とか、宿場町の雰囲気を伝えようとしているように感じます。
※田中宿の風景。
田中駅前交差点
宿場町を西に向かうと、やがて、田中駅前交差点を迎えます。道は、真っ直ぐの方向が街道で、左に向かうと田中駅。そして、主要道路は右方向へと向かう道。右に向かうと、東御市の中心地、東御市役所などがある地域へとつながります。
この先、直進の街道筋に向かうのですが、その道は、まだ整備がされていない旧道の状態です。
※田中駅前交差点。街道は、写真向かいの信号の方向です。
東御市田中交差点
旧道状の道筋をしばらく進んで行くと、その先で、東御市田中交差点に入ります。この交差点の道際に「海野宿 1.2km」と表示された道案内がありました。
この交差点には横断歩道はありません。道案内にもあるように、歩道橋を利用して、向かいの方へと進むのです。
※歩道のない、東御市田中交差点。
歩道橋を通り過ぎ、幅の狭い旧道を進みます。途中、田中小学校に差し掛かったところには、再び、道案内。「←海野宿 遊歩道をお通りください」の表示です。街道は、確かに旧道の道筋ではありますが、安全上、遊歩道を進むように案内されているのでしょう。
ここは、忠告に従って、遊歩道へと向かいます。
※小学校の際に案内表示が置かれています。
遊歩道
遊歩道の道筋は、街道から一筋南、すぐ左には、しなの鉄道線の軌道が通っています。沿線は、荒れ地のような場所ですが、そこそこ管理されている様子です。
赤茶色の舗装が敷かれた歩道に沿って、数百メートル進みます。
※歩行者用に案内された遊歩道。
海野宿へ
遊歩道が途切れた先で、先ほどの旧道と合流します。そして、少しの間、しなの鉄道線の軌道伝いに進んで行くと、その先で踏切に入ります。
※海野宿へと入る所の踏切。
踏切のところには、「海野宿 250m」と表示された案板が置かれています。もう、海野宿は間もなくのところでしょう。
私たちは、踏切を越え、真っ直ぐ続く旧道に向かいます。
※踏切の脇に置かれた道案内。
旧道の道沿いは、新しい住宅がまばらに建ち並び、その先は、少し開けた空間です。そして、空間の際にあったのが、由緒がありそうな神社です。
この神社、白鳥神社と呼ばれています。私たちは、神社の境内へと入り進んで、参拝をさせて頂きました。
※街道の先は少し開け、白鳥神社が鎮座します。
「白鳥神社の創建は、奈良から平安にかけてと推測できる。白鳥神社は、日本武尊・貞元親王・善淵王・海野広道公の四柱を御祭神として祀っている。」と、神社で頂いた資料に書かれています。
さらに、
「日本武尊は、第十二代景行天皇の第二子で、西征・東征と奔走された。この東征の帰り道に海野にご滞在になったと伝えられている。その後、日本武尊は、伊勢の国でお亡くなりになり、白い鳥に化身される。海野にもこの白い鳥が舞い降りる。そこで、海野の民は、お宮を建て、日本武尊を祀った。そして、仲哀天皇の二年、勅命により、白鳥大明神と御贈号されたと伝えられている。」
と続きます。
日本武尊は、東征の帰路、今の甲府市の酒折宮(さかおりのみや)から信州に入り、美濃の国を経て近江に入ったとされています。黒岩重吾の小説『孤影立つ』には、その時の描写が実に繊細に描かれているのですが、そこでは、信州の諏訪辺りから伊那渓谷を下って美濃の国へと向かうルートが書かれています。
信州に入った日本武尊が、果たして、海野の地まで足を延ばすことになったのか。真相は知る由もありません。ただ、白鳥神社の縁起には、確かに、日本武尊の足跡も、記載されているのです。
※白鳥神社。
白鳥神社を通り過ぎると、そこはもう、海野の宿場です。往時の宿場町がそのまま残っているような、海野宿に到着です。
※往時の姿がそのまま残る海野宿。