街道の起終点
江戸時代の交通網の、中心地である江戸日本橋。名高い五街道の、起終点となったところです。日本橋川に架かるこの橋の周辺は、江戸時代には、水運が盛んだったとのことですが、今は、首都高速が水面を覆い、水辺のイメージはありません。
立派な橋や、装飾柱(モニュメント)など、歴史を背負った日本橋。景観の観点からは、残念な状況だと言えるでしょう。江戸以降の交通の、最も重要な歴史の跡を、近代的な高架の道路が覆う姿は、どう見ても、あるべき姿だとは思えません。
それでも、長い道中を歩いた後で、日本橋を見た時は、その達成感は格別で、感動を覚えたものでした。以前、中山道を歩きつないで来たときは、北側からの到着でしたが、今回は、南から。近江の国の草津の宿場で、二手に分かれた街道が、この橋で、再び顔を合わすことになるのです。
汐留
新橋駅の、レンガ造りの高架下を抜けた後、街道は、汐留の区域に入ります。位置的には、新橋駅の東側。この先も、街道は、国道15線伝いです。区の領域も、ここからは、中央区に入ります。
辺りは、高層ビルが幾つも見られ、大企業のオフィスなどが、ひしめき合っている状況です。
正面には、国道を横断している高架橋。これは、ゆりかもめの汐留駅や、東側のビルなどをつないでいる、歩道橋だと思います。国道を挟んだ東西を、この橋で結んでいる様子です。
※新橋駅東側の国道15号線。
銀座
新橋駅の東側を通り過ぎると、間もなく、東京高速道路の高架下を通ります。そして、その直後に設けられた交差点が、銀座八丁目交差点。
※銀座八丁目交差点。
ここから始まる銀座の道は、車道は封鎖された状態です。元祖、歩行者天国のこの道も、この時はコロナの影響下。せっかくのメイン道路も、道ゆく人はまばらです。
銀座通りは、その先で、七丁目、六丁目、五丁目の交差点を順番に通り越し、四丁目交差点を迎えます。人の通りは、この辺りに近づくと、さすがに、ぐんと増えた状態です。
銀座通りのこの道は、かつてはもう、江戸城下の町の中。商人が暖簾を連ね、町人や旅人たちがひしめき合う光景が浮かんできます。
※銀座四丁目交差点。
京橋
銀座通りをさらに進むと、次第に、人通りはまばらになって、銀座一丁目の交差点に入ります。相変わらず、高層のビルが建ち並び、銀行や、ホテル、お店などが道沿いに連なります。
銀座通りの先の方には、首都高速の高架道路も目に入ります。
※銀座一丁目交差点。
その後、首都高速の高架下を潜り抜けると、京橋です。ここでは、歩行者天国は終了し、道路には、たくさんの車が往き交います。歩道にも、再び、人の姿が増えてきたように感じます。
この辺り、左に向かうと、東京駅のすぐ近く。人の動きが活発なところです。日本橋までの道のりは、あと1Kmの表示です。街道は、最後の1キロ区間を迎えます。
※京橋交差点。
日本橋へ
ほどなく、東京駅の八重洲口と直結する、八重洲通りが現れます。街道が八重洲通りと交わるところは、日本橋三丁目交差点。ここからは、日本橋の区域です。
しばらくすると、デパートや飲食店などが建ち並ぶ、賑やかな通りに入ります。日本橋二丁目と表示された交差点を通り過ぎると、いよいよ、終着点は目前です。
※日本橋二丁目交差点。
最後の大きな交差点は、日本橋交差点。そこからは、日本橋の上に架かる、首都高速道路が望めます。ついに、街道は日本橋。終着地点に到着です。
私たちの、東海道の街道歩きは、いよいよ、旅の終わりを迎えます。東海道1番目の宿町、品川の宿場から、およそ8Km。この日、川崎の宿場のはずれ、六郷橋付近から歩き始めた道のりは、17Kmに及びます。
少し長い道中でしたが、道はほぼ平坦です。なおかつ、最後の区間であることが、気力を保てた要因だったと思います。
ほぼ、2年の時をかけ、歩きつないだ東海道。日本橋に着いた時の感激は、ひとしおのものでした。
※終着点の日本橋。
東海道の起終点の日本橋。今は、下の写真のような状況です。江戸時代には、日本の中心地だったこの橋は、明治の時代に、石造りの橋となり、長い歴史を背負いながら、今もその姿を残しています。
街道の要の橋は、これからも、歴史を語りつないで行くのでしょう。
※橋の欄干には、様々な装飾柱(モニュメント)が施されています。
東海道の終点の、南西側のたもとには、木橋時の姿をかたちどる、モニュメントと並ぶように、「重要文化財 日本橋 附(つけたり)東京市道路元標(一基)」と記された、説明板がありました。
最後に、その一文を紹介します。
「日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。」
「現在の日本橋は、明治四十四年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。・・・なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。」
「また、附(つけたり)指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967)まで都電の架線支柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。」
※南西の橋詰にある日本橋のモニュメント。
※北西橋詰にある道路元標プレートの複製。
東海道の歩き旅。ついに、江戸日本橋に着きました。長々と綴ってきたこのブログ、次回から数回は、東海道の道中で、特に印象が深かったところを振り返りたいと思います。
その後は、信州の下諏訪宿から歩き始めた、甲州道中の紹介です。再び、江戸日本橋を目指す歩き旅。ぜひとも、ご期待頂ければと思います。