相模路
平塚の宿場を過ぎた後、街道は、茅ヶ崎を経由して藤沢宿に向かいます。この間の道筋は、概ね、整備が進んだ幹線道路。国道1号線を中心に、都市間をつないでいる、主要道路を歩きます。
時折、姿を見せる、松の並木の名残りなど、街道の面影を感じるところもありますが、全体として、都市の風景が続きます。
平塚宿
西組問屋場跡を過ぎた後、平塚の宿場町は、駅に向かう主要道路、”東海道本通り”と合流します。街並みは区画された、近代的な姿です。この道筋では、宿場の面影を残す建物は、見かけることはできません。
所々に設置された、モニュメントや案内板が、かつての宿場施設が置かれた場所を、辛うじて、今に伝えています。
神奈川銀行の支店前には、「平塚宿本陣旧蹟碑」と記された、重みのある、石造りの説明板がありました。この辺りには、加藤七郎兵衛が運営していた本陣があり、総ひのき造り、間口30m奥行68mの規模を誇っていたということです。
さらに、しばらく進むと、今度は、高札場跡の標示です。石標と案内板が、車道との境界あたりに置かれています。
※左、本陣跡のモニュメント。右、高札場跡の石標と案内板。
江戸見附
街道が、平塚駅に近づくと、道路の左前方に、意匠を凝らした立派な建物が見えました。公民館か市民センターなのでしょう。敷地の隅に再現された、江戸見附の堤と併せて、江戸時代の雰囲気を醸し出している一角です。
※江戸見附跡と市民センター。
平塚駅へ
平塚の宿場町は、基本的には、江戸見附で終わりです。この先の街道は、次の宿場の藤沢宿を目指します。
ただ、今日の平塚は、ここから先が市の中心部。次第に高層の建物が目立つ地域に入ります。
※平塚駅に向かう街道。
やがて、歩道沿いにお店が並び、賑やかさも加わります。歩道に設置されたマンホールには、”東海道本通り”と記されて、確かにそこが、街道のルートであったことを示しています。
その先で、街道は、平塚駅前交差点を迎えます。ここを右折すると、すぐ先が、JR平塚駅。私たちは、ここで今回の歩き旅の行程を終了です。この日は、小田原の東に位置する、国府津駅からスタートし、大磯の宿場を通って平塚へ。およそ、14Kmの道のりでした。
※”東海道本通り”と記されたマンホール。右、平塚駅前交差点。
春から秋へ
今回は、三島宿から始まって、ここ平塚まで50Km。昨年(2021年)の3月に、4日をかけて歩きつなぐことになりました。
ここから先、江戸日本橋へは、残すところ、62Kmの道のりです。私たちは、半年の時を開け、昨年の10月に、平塚から日本橋まで、最後の区間に挑戦です。
季節は、春から秋へと移りゆき、心地よい空気を感じながら、歩き旅を再開します。
※平塚駅前交差点から東へと向かいます。
馬入(ばにゅう)の一里塚
平塚駅に戻った後は、平塚駅前交差点から、東に向けて進みます。美しく整備された道筋は、相変わらず、都市の市街地の風景です。途中、老松八千代歩道橋の脇を通り過ぎ、真っすぐ延びる”東海道本通り”を歩きます。
※”東海道本通り”の道筋。
本通りをしばらく進むと、街道は、国道1号線と合流します。この合流地点の直前に、馬入の一里塚跡がありました。そこには、石造りのモニュメントが設置され、その傍に、説明板も置かれています。
説明では、江戸日本橋から15番目の一里塚であり、旧東海道を挟む南北に、一つずつの塚があったということです。一里塚の東側には、この先にある相模川(馬入川(ばにゅうがわ))を渡るための、川会所と呼ばれている、役所施設が設けられていたようです。
※左、国道との合流地点。右、馬入の一里塚跡。
馬入川
国道と合流した街道は、そのすぐ先で、相模川を迎えます。ただし、この位置の、東海道の川越しは、馬入の渡し(ばにゅうのわたし)と呼ばれているため、正しくは、馬入川と呼ぶのかも知れません。
地理的な正確さはさておいて、相模の国の大河川が近づきます。*1
※相模川へと向かう国道。街道は、真っすぐ右の側道へ。
国道は、相模川(馬入川)の堤防へと、徐々に勾配を上げながら東進します。街道は、その下の側道を真っ直ぐに川に向かって進んで行って、堤防の直前で、一気に堤に上るのです。
その先は、国道と一体となって架けられた、橋の歩道を歩きます。
※馬入川に架かる橋。
相模川は、そこそこ大きな河川です。上流は、山梨県の桂川。甲州街道が通過する、大月や笹子などの水を集めて、相模湾に注いでいます。
※相模川の様子。
茅ケ崎へ
相模川(馬入川)を渡った先で、茅ケ崎市に入ります。この先、茅ケ崎を横断する街道は、概ね、国道に沿った道。しばらくは、道沿いには民家が並び、車が行き交う狭い歩道を、ひたすら東へと向かいます。
※茅ケ崎市の入り口辺り。
道沿いに、店舗などが目立ってくると、正面に、新湘南バイパスの高架道路が現れます。この道は、首都圏を遠巻きにつないでいる、環状道路の一環で、湘南海岸にアクセスできる道路です。
バイパスの高架を潜ると、再び、民家が並ぶ道筋へ。そして、次第に、茅ケ崎の中心部へと近づきます。
※新湘南バイパスとの交差地点。
鳥居と石碑
民家の姿が次第に薄れ、再び店舗が目立ってくると、街道は、小さな川を渡ります。その川に差し掛かる直前の左手には、鮮やかな、朱塗りの鳥居がありました。この鳥居、左手先の、鶴嶺八幡宮の鳥居でしょうか。斜め左に延びていく、参道を眺めながら、鳥井戸橋へと向かいます。
鳥井戸橋のたもとには、「南湖の左富士の由来」と表記された案内板と、石の碑がありました。説明では、
「浮世絵師安相広重は天保3年(1832年)に東海道を旅し、後続々と東海道53次の風景画を発表した。その中の一枚に、南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並みの見える場所の街道風景を写し、松の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ケ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。」
との表記です。吉原の左富士のことについては、「歩き旅のスケッチ[東海道]77」で触れていますが、茅ケ崎でも、左富士が有名だとは、この時初めて知りました。
今でも、左富士が見えるのか。見渡しても、その姿を望むことは出来ません。天候の仕業なのか、あるいは、街の姿が変遷したためなのか。雲がかかった空を眺めて、先の道を急ぎます。
※左、鳥居が見える街道。右、南湖の左富士の石碑。