旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]97・・・大磯宿から平塚宿へ

 神奈川の中央部

 

 大磯から先の街道は、次第に、人口集中地域へと向かいます。この先、平塚、茅ケ崎、藤沢は、神奈川県でも有数の市街地を形成している地域です。街並みは、一気に都会の様相を見せ始め、整備された広い道路が続きます。

 大磯の次の宿場は、7番目の平塚宿。この間、わずか3Kmほどの道のりですが、落ち着いた雰囲気の道筋から、都市の道へと、その姿を大きく変化させる区間です。

 

 

 江戸見附

 国道は、新島襄終焉の地を過ぎた後、大きく左にカーブして、やや内陸側に向かいます。途中にある交差点を、左に折れた先にあるのが、JRの大磯駅。私たちは、そちらへは向かわずに、真っ直ぐ国道の歩道を進みます。

 国道をしばらく歩くと、三沢橋東側と表示された、変則的な交差点に至ります。街道は、ここから左に延びる旧道へ。松の並木が待ち構えている、古くからの道筋に向かいます。

 

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※三沢橋東側の交差点。左先に向かう道が街道です。

 

 旧道は、再び、立派な松並木の道に入ります。堤に沿って松が植えられ、その奥に住宅が佇んでいるという状況です。

 並木の道をしばらく進むと、「江戸見附」の案内板。大磯の宿場町は、ここで東の境を迎えます。

 

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※江戸口見附跡。

 

 化粧坂(けわいざか)

 真っ直ぐ延びる街道は、その先で、JR東海道本線の軌道と交わります。道は、軌道下のトンネルを潜り抜け、線路をまたいだ反対の方向へ。

 

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※JRの軌道下を潜る街道。

 

 軌道下を潜った先も、旧道の松並木は続きます。途中には、安藤広重の宿場絵が描かれた、案内板が掲げられ、往時の大磯の宿場の様子が偲ばれます。

 さらにしばらく東に向かうと、今度は、「化粧坂の一里塚」と記された説明板がありました。ここにも、付近の様子を描いた絵が掲げられ、一里塚の辺りの様子を伝えています。化粧坂の一里塚には、海側が榎(えのき)が植えられ、山側の塚の上には、せんだんの木が植えられていたということです。

 

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※左、大磯宿を描いた広重の絵。右、化粧坂(けわいざか)の一里塚。

 国道へ

 一里塚を後にして、しばらく進むと、松の木は、ややばらけた状態に。その後、街道は、再び国道1号線に入ります。

 

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※国道と合流する手前の旧道。

 国道との合流地点は、化粧坂(けわいざか)の交差点。この先は、花水川を越えるまで、国道伝いに歩きます。

 

 花水川へ

 国道は、左手に小高い丘を眺めながら、平塚市方面に向かいます。右側は、住宅や店舗などが並ぶ道。やや狭い感じの歩道に沿って歩きます。

 

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化粧坂の交差点。

 

 街道は、少しの間、広い敷地や、緑多い庭がある、住宅地を通り抜け、広く開けた空間に近づきます。途中には、由緒がありそうな寺院なども見られます。

 花水橋の交差点では、辺りの景色が一気に開け、関東の広い平野に差し掛かった印象です。

 

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※花水橋。橋の向こうは平塚です。

 

 平塚

 花水橋から先の国道は、一気に道幅が広がります。交通量も増してきて、都市の雰囲気が高まります。

 橋を越えてしばらく進むと、平塚市の領域です。道沿いには、住宅などもありますが、車関係の店舗など、沿道サービスの看板などが目立ちはじめるところです。

 

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平塚市の入口辺り。

 

 国道を少し進むと、古花水橋の交差点。道が交わるところには、「東海道平塚宿」と刻まれた大きな石の標示が置かれています。(この道を右折すると、平塚駅方面に向かいます。)

 平塚宿は、この辺りから始まるようですが、街道歩きの資料などでは、さらに50m、北東に向かわなければなりません。

 

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※「東海道平塚宿」と刻まれた石標。ここを右折すると平塚の中心地に向かいます。

 

 平塚宿

 国道をもう少し進んだところの、右側に、落ち着いた雰囲気の旧道が現れます。この道が、本来の東海道。おそらく、平塚の宿場町は、この辺りが起点となっていたのでしょう。

 ただ、平塚は、第二次世界大戦で空襲を受け、街は破壊されました。従って、正確に、街道の道筋が残っているのかどうかは分かりません。この道筋も、旧道とは言え、整備された区画道のような感じです。

 

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※旧道の道筋。

 

 ひっそりとした道筋を辿っていくと、やがて、先ほどの、古花水橋交差点から右折した道路と合流します。

 この、合流地点の直前に、平塚宿問屋場跡と表示された案内板がありました。案内板が置かれたところは、消防団の建物なのか、車庫には、平塚宿の浮世絵が描かれた、感じの良いシャッターが、通る人の目を引き付けます。

 また、なまこ壁を模したような壁のつくりも印象的で、かつての宿場町の雰囲気が高まります。

 

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※平塚宿問屋場跡の案内板。

 

 問屋場(といやば)

 問屋場跡に掲げられた説明板には、少し詳しく、この場所の、問屋場のことが書かれています。

 

 「慶長6年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永12年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に耐えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安4年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は10日目交替で執務したという。」

 

 この記事から推測すると、元々平塚宿は、それほど大きな宿場ではなかったのかも知れません。隣接する、八幡新宿という町を、ある時期に、吸収した様子です。「東組問屋場」は、「西組問屋場」から、わずか200mほどの場所。従って、2つの町は、当初から、一体的な町並みだったと思われます。

 規模を増した平塚の宿場町。今は、往時の姿は見られませんが、町並みを偲びながら、東へと向かいます。

 

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※平塚宿の様子。