松並木と偉人の町
大磯は、松並木が素晴らしいところです。東海道の沿線には、今でも各地に松の並木は残っていますが、大半は、幹線道路ではなく旧道沿い。そんな中でも、ここ大磯は、国道伝いに立派な並木が残っています。
国道の松並木では、三島にある、初音原(はつねがはら)が、群を抜いて立派です。そして、大磯は、それに次ぐような見事さを誇っています。
大磯は、東海道8番目の宿場町。元々は、街道沿いに町並みが形成されて、発展してきたのだと思います。近代の世になって、宿場の機能が衰退すると、今度は、政財界の重鎮たちが、別荘を築きます。前回紹介したように、吉田茂の邸宅を始めとして、伊藤博文や大隈重信などの名が連なります。
さらには、信州の文豪である島崎藤村も、ここ大磯に居を構え、この地で終焉を迎えます。また、同志社大学の設立者、新島襄も、静養のため訪れたこの地の宿で、息をひきとることになったのです。
偉人が求めた、安息の空間が、ここ大磯にはあったのか。湘南の海岸や小高い丘は、温暖な気候とともに、心安らぐ自然豊かな土地だったのだと思います。
大磯宿へ
吉田茂の邸宅を右に見て、城山公園前の交差点を左折です。この先は、しばらくの間、あまり変わり映えのない、国道の歩道を歩きます。
途中、神社などが見られるものの、概して、住宅が不規則に連なるような町並みです。国道の右の奥には、大磯の海岸が広がるところ。何となく、潮の香りが漂うような、東海道の沿線です。
※左、八坂神社。右、大磯宿に向かう街道(国道1号線)。
明治記念大磯邸園
街道は、やがて、松並木の道へと変わります。その入り口は、疎らな松の並びであっても、次第に荘厳な並木の姿が現れます。
大磯の宿場町を直前にして、旅人は、並木の道を愛でながら、また、砂浜から漂ってくる、潮の香りを感じながら、足を早めたことでしょう。
※松並木の始まり。
しばらく進むと、右手には、西洋風の立派な建物が目に留まります。相当由緒ある建物のようですが、その敷地全体が、興ざめな壁で仕切られていて、残念な思いをしたものでした。
実は、この建物を含めた敷地が、「明治記念大磯邸園」と呼ばれるところ。そこには、滄浪閣(そうろうかく)と名付けられた伊藤博文の邸宅跡や、西園寺公望、大隈重信など、そうそうたる方々の邸の跡があるそうです。
※明治記念大磯邸園前。
興ざめな壁の先をそのまま東に進んで行くと、今度は、同じく、「明治記念大磯邸園」と表示された石造りの門が現れました。門の奥には、和風の屋敷も見通せます。
このように、「邸園」には、幾つもの偉人の邸宅が残されているのです。
※邸園のもう一つの正面。
松並木
邸園を過ぎてからも、松の並木は続きます。この辺りの並木の様子は、国道の下り線を挟んだ形で並木が残り、上り線には、右側だけが松が連なるという状況です。おそらくは、下り線が本来の街道で、上り線は、新たに敷設された道なのだと思います。
私たちは、下り線の歩道伝いに進むのですが、時折、細かな起伏と蛇行があって、松の木を避けるように、その道筋が通っています。
※松の木を避けながら通過する歩道。
大磯宿
松並木を東に進むと、土塁のような堤の中に「上方見附」の案内板がありました。「上方見附」は、宿場町の京側の入口に置かれた施設で、宿場の防御を担っていたところです。
大磯の宿場町は、この辺りから始まっていたようです。今となっては、街道の両側は、住宅などが建ち並び、往時の宿場の面影は、見ることはできません。
※上方見附の案内板。
湘南発祥之地
やがて、松並木が途切れると、空が一気に開けたようで、近代的な、大磯の街並みが広がります。
途中、歩道の際に、「湘南発祥之地」と刻まれた、石碑がありました。「湘南」という言葉の由来は、鴫立沢(しぎたつさわ)と呼ばれていたこの辺りの海岸で、西行法師が歌をうたった話に起因しているということです。*1
※湘南発祥之地の石碑
話は、少しそれますが、上の写真にもあるように、石碑が置かれた歩道の先には、右方向の細い路地が見られます。その角には、何本かの幟旗。昼時を迎えていた私たちには、確かに、刺激になりました。
誘われるようにして、路地に入ると、すぐそこには、ロッジ風のレストラン、”はやし亭”がありました。ヒレカツなどの洋食が、この上ない美味しさで、この先の歩く意欲が倍増したのを覚えています。
街道は、この先で、大きく左にカーブして、海岸から少しずつ離れるように進みます。
※大きく弧を描く街道。
新島襄終焉の地
街道が、大きく湾曲する辺りには、右手に、植栽が施されたポケットパークがありました。そこには、「同志社大学創立者 新島襄先生終焉の地」と刻まれた、少し大きおな石柱が。そして、その横に、新島襄の生涯を簡潔に記した説明板がありました。
※新島襄終焉の地。
新島襄の生涯が、一目でわかる、説明板の記載を紹介します。
「明治の教育者新島襄は、1843年(天保14年)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、翌年京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。」
中山道15番目の宿場町、安中宿を故郷とする新島襄は、東海道8番目の宿場町、大磯宿でその生涯を閉じることになりました。
歴史の一つの痕跡に立ち、この国で活躍された偉人の姿を偲びながら、この先の行程を進みます。