由比と蒲原
もう、半世紀近く前のこと。私がお世話になっていた、静岡の方に勧められ、由比(ゆい)と蒲原(かんばら)を訪れたことを覚えています。古くからの家並が、良く残っているということで、旅情をかき立てられるようにして、由比の駅に降り立ちました。
その頃の由比・蒲原は、細長く続く道筋に、木造の古い軒が連なっていたように思います。タイムスリップしたような、町の中を歩きつつ、ここが宿場であったのか、と、感慨を深めたものでした。
若い頃の思い出ですが、その時の印象は、その後いつまでも、私の心の片隅にありました。
由比宿
半世紀ほどの時が経ち、再び訪れた由比の町。駅前から、少し古い街並みを東に進むと、道幅は、随分と広がります。かつて目にした、古い町の姿は、今はもう、それほど残っていないように感じます。
比較的新しい家並みを眺めながら、宿場の中心部へと向かいます。
しばらくすると、前方に、由比川の橋が見えました。この橋は、かつては、板橋が架けられていたということで、今も、歩道は板張り仕様。欄干には、常夜灯の修景や、様々な意匠が施され、特徴がある橋でした。
※由比川に架かる橋。
由比川の橋を越えてしばらくすると、右側に、「”由比宿”案内板」がありました。ここに描かれた宿場地図を見てみると、由比宿は、由比川の直前でかぎ型に折れていて、いわゆる、枡形(ますがた)が形成されていたようです。
今は、上の写真のように、真っすぐに橋を渡ることになりますが、往時は、写真の右手で川にぶつかり、左折の後、この橋のところで右折して、板橋を渡ったというのです。
地図には、その様子がよく表され、興味深いものでした。さらにそこには、宿場内の建物配置が示されていて、宿場町の様子もうかがえます。
※宿場の案内板。右端のかぎ型の道が枡形です。
由比の宿場は、意外と小さな宿場だった様子です。宿場の解説を見てみると、町並みは東西5丁半(約600m)、人口707人、戸数160軒、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠が32軒だったということです。
島田市の博物館の展示では、由比宿は、その規模として、52番目に位置しています。53次の宿場の中では、2番目に小さな宿場だったのです。
街道は、その後しばらく、新しい住宅地を進みます。道はよく整備され、町並みは、かつての面影を感じることはできません。
※由比川を渡った先の宿場町。
本陣公園
それでも、由比川のところにあった案内表示は、この先の、本陣公園と広重美術館の存在を告げていたため、何がしか、宿場に関する名残などはあるのでしょう。どんな施設か楽しみにして、本陣跡を目指します。
しばらく歩くと、左手に、それらしい門構えの施設が見えました。立派な門や板塀は、由比本陣の格式を誇示するような雰囲気です。
※左、左奥に本陣の門などが見えます。道を挟んだ右側が、由比正雪の生家です。右、本陣前。
門の中を覗いてみると、広々とした庭の向こうに、立派な造りの、東海道広重美術館。そして、右側が、由比宿交流館の施設です。
時間の関係もあったため、残念ながら、交流館のみの訪問でしたが、宿場町のジオラマや展示物などを拝見し、往時を偲ぶことができました。
このブログでも、時折触れてきた、安藤広重の浮世絵の世界には、いつかまた、訪れてみたいと思います。
上の右側の写真に写っている、右端の電柱を見ていただくと、「正雪紺屋」と記された案内標識がありますが、本陣前の建物が、実は、由比正雪(ゆいしょうせつ)の生家だというのです。
正雪は、江戸初期に、幕府に反抗した人物です。高校の日本史の教科書程度の知識ながら、由比と言えば、由比正雪。由比の町を代表する知識人の一人として、何故か私の脳裏に宿っています。
道沿いには、”正雪もなか”の看板もあり、由比正雪は、地元の誇りでもあるようです。時の政府に盾突いて、結局、長くはないその生涯を終えてしまうこの人物は、広く知られた方ではないものの、地元では、その生涯が綿々と語り継がれているのです。
桜エビ
由比の町は、前回のブログでも触れたように、桜エビで有名です。本陣跡から、少し左の坂を上って行くと、”ゆい桜えび館”という施設があるようで、本陣を出て、そちらへと向かいます。
この”桜えび館”は、坂の上を通過する、県道沿いに設けられ、土産物店と小さな食堂が併設された、小じんまりとしたお店です。
私たちは、ここで、桜エビの昼食をとることに。待望の、産地ならではの、特別な美味を楽しむことができました。
※左、ゆい桜えび館の正面。右、桜エビのかき揚げ。
由比宿を後に
昼食の後、再び街道に戻ります。この先は、新しい住宅が軒を連ねる、町並みが続きます。その先で、道は小さなクランク状となりますが、先ほどの”由比宿案内板”を見てみると、宿場町は、この辺りまで。この後は、次の宿場、蒲原へと向かう街道に移ります。
※クランク状の道。宿場町はこの辺りまで。(写真は進行方向とは逆の西向きの宿場の方角を写しています。)
一里塚
クランク状の曲道を過ぎた後、しばらくすると、右側に、一里塚跡の石標です。江戸から数えて、39番目の一里塚。この先は、街道と小高い位置を通過していた県道が合流し、次の宿場、蒲原宿を目指します。
※由比の一里塚跡。