旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]55・・・川越遺跡

 川越遺跡

 

 大井川の川越しは、”越すに越されぬ大井川”と言われるように、大変厳しいものでした。東海道の道中にある、幾つかの厳しい峠の道は、体力さえ保てれば、何とか凌ぐことが可能です。仮に、自力で越えられない場合でも、馬や駕籠が先の宿場に導いてもくれるのです。

 ところが、川越しは、水の勢い次第です。洪水とまではいかなくとも、川幅を満たすような大水では、渡ることはできません。水勢を見守りながら、時機を計って進むしかないのです。

 この重要な川越しに臨む拠点が、大井川の島田側に、遺跡として残っています。川越しを生業とした人々や旅人の喧騒が、伝わってきそうなところです。

 

 

 大井川

 県道の大井川橋を渡りながら、広々とした、川の流れを見つめます。河川敷が広がる中を、二筋三筋の流れが走り、その水の速さは、深く川底を削るような勢いです。

 この程度の川筋でも、歩いてここを渡るなど、想像もつきません。かつての人足の人たちは、この流れの中を、連台(或いは、蓮台。この場合は、川を渡る客を乗せる台のことです。)などを担ぎながら、幾度となく往き来を繰り返していたのです。

 

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※大井川の流れ。

 

 島田へ

 大井川を渡りきると、本来の島田の町に入ります。街道は、金谷側の川越し場と、島田側の川越し場を結んでいるため、県道の大井川橋を利用する今のルートは迂回道。橋を渡ったその先で、左岸道を少し下って、島田宿の川越し場まで戻るのです。

 大井川の左岸の道は、途中で二手に分かれます。川沿いの、立派な堤防道は、新しく築かれたような道ですが、その左方向に、旧来からの堤のような、静かな道が通ります。この分岐のところの直前に、永仰景迹(えいげいきょうじゃく)と刻まれた大きな石碑が聳えます。

 初めは、大井川の川越しにまつわる石碑かとも思っていましたが、どうもそうでは無いようです。「永くこの景観を仰ぎ見る」との意味のようで、大井川に架けられた、橋を記念するモニュメントなのかも知れません。

 

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※巨大な石碑。

 

 島田市博物館

 私たちは、石碑の先で、左方向の静かな道に入ります。堤防伝いに植えられた、並木の木陰を楽しみながら、しばらくの間、下流に向かって進みます。

 その後、並木道から右手にそれると、島田市博物館の敷地です。広い駐車場を備えるこの博物館は、川越遺跡(かわごしいせき)を訪れる、拠点でもあるところ。時期が良ければ、多くの観光客で賑わっているのでしょう。

 

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島田市博物館。

 博物館は、それほど大きな建物ではありません。1階は、島田宿や大井川の川越しなど、東海道の展示が中心の、常設展示スペースです。2階は、特別展の展示場。時々のテーマに沿った展示などが行われている様子です。

 

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※常設展示室入り口と室内。

 

 1階の常設展は、非常に興味深い内容です。宿場町の役割や、旅籠での生活などが、視覚的に、分かりやすく解説されているのです。また、大井川をどのようにして越えたのか、その制度や川越しの様子なども学べます。

 

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※川越しの様子を開設した展示。

 川越し

 旅人は、一般に、人足の力を借りて、大井川を越えました。背に負われたり、連台に担がれたりと、その方法は幾つかあった様子です。

 この川越しを取り仕切っていたのが、川会所と呼ばれる役所です。(後にまた、紹介します。)そして、役所の下に、人足を束ねる組があり、組単位で川越しの実務にあたっていたのです。

 組に属する人足たちは、口取、本川越、弁当持ちなどの階級があり、それぞれの階級ごとに、仕事の内容が割り当てられていたのです。人足を抱える組は、1番から10番までの10組がありました。

 人足たちは、普段は番宿に待機していて、必要な時に動員がかかると出動し、その任務にあたったということです。

 

 こうしてみると、大井川の川越しは、実に大変な難関だったことがわかります。大陸の大河の渡船の状況は、よく分からないことですが、日本の川ほど流れが速く、水流が激変する川筋はないような気がします。

 今はもう、川越しなど、昔の話ではありますが、先人たちの苦労の跡も、語り継がれれていくことを、密かに願うばかりです。

 

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※大名の川越しは、人足を総動員して、実に壮観だった様子です。

 

 島田髷

 話題は少し変わります。

 島田と言えば、思い浮かぶのが島田髷(しまだまげ)。文金高島田という髪型は、昭和以前の人であれば、誰もが知る、花嫁姿の典型です。

 この髪型は、島田の宿場の遊女から伝わったとされていて、国中に広がった女性の身なりの原点です。

 博物館でも、このことが紹介されていて、全国版の、伝統の誇りを感じます。

 川越遺跡

 博物館を後にして、本来の街道に戻ったところが、島田側の川越し場。川越遺跡の起点です。この位置から、およそ300mほどの区域が、川越遺跡と呼ばれています。1966年に、国指定の史跡として指定された、大井川に臨む町の史跡です。

 今では、江戸後期の建設とされる、川会所の建物や、堤防跡の石積み以外は、ほとんどが復元された建物のように感じます。それでも、川会所の中の様子や番宿の構えなど、往時の姿がものの見事によみがえっているのです。

 

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※左、川越遺跡の起点。右、川会所の様子。

 川会所

 川会所(かわかいしょ)は、川越しを取り仕切る役所です。川の深さの程度によって、料金が決められていたために、時々の水深の計測や料金設定などを行なっていたようです。

 また、川札と言う、切符を交付する役割もありました。

 因みに、膝下ぐらいの浅瀬の渡りは、今の金銭感覚で、1,000円から2,000円程度だったということです。さらに水深が増していくと、数千円、或いは、一万円を超える場合もあったとか。

 旅には、大変な出費が必要とされていたのです。

 

 史跡の通りの途中には、古い店構えの蕎麦屋さんなども見受けられ、観光客へのもてなしも万全です。

 

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※そば玄の建物。おいしいお蕎麦が頂けます。

 史跡の町並み

 川越遺跡は、おそらく、まだ島田宿ではないのだと思います。或いは、島田宿の西のはずれになるのかも知れません。人足たちが待機する、番宿などが連なる道は、江戸時代にタイムスリップしたような町並みです。

 史跡の町を通り過ぎて、島田の宿場に向かいます。

 

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※史跡の町並と東海道