旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)39・・・土佐路(24番と室戸岬)

 室戸岬

 

 室戸岬は、空海にとって、極めて重要な場所でした。まだ19歳という若々しい空海が、阿波の山中で修業を重ね、さらに、室戸の地へと向かうのです。室戸岬は、最御崎(ほつみさき)とも呼ばれるように、最果ての岬です。8世紀の時代には、人が歩く道さえも、無かったかも知れません。

 御厨人窟(みくろど)という岬近くの洞窟で、空海は修行を続けます。そして、この地で明星を得ることになるのです。

 

 

 最御崎寺

 室戸岬灯台の展望所を後にして、もと来た道を引き返します。しばらくすると、最御崎寺の仁王門が右手に見えて、そこから、境内に向かいます。

 この霊場の仁王門は、岬の先端に正面を向けるような格好です。さらに、仁王門の左には、重厚な弘法大師像が参詣者を迎えます。この像も、仁王門と同様に真っ直ぐと正面を見据えられ、岬の先に再現なく広がっている、空と海を感じ取っておられる様子です。

 

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最御崎寺の仁王門と弘法大師像。

 

 境内へ

 仁王門をくぐった先が境内です。森の中に開けたような空間に、幾つものお堂が建ち並び、厳かな雰囲気です。

 本堂は、仁王門から真っすぐ進んだ正面奥。多宝塔や石の塔を右に見ながら本堂へと向かいます。

  

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※本堂

 大師堂は、本堂の手前の左側。本堂の参拝を終えた後、大師堂を参拝し、その裏手にある納経所で御朱印を頂きます。

 

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※大師堂。手前の石は、鐘石と呼ばれています。

 

 最御崎寺の境内は、室戸岬を形作る、険しい崖地の上にあり、その部分だけ、やや平たくなった、台地状の地形です。

 今は、海岸沿いに国道が整備され、誰でも容易に、この霊場を訪れることができますが、それでも、最果ての地であることを実感できるようなところです。

 

 修行の道場

 土佐の国の最後の札所、最御崎寺の参拝を済ませた後は、いよいよ阿波の国に向かいます。

 ここまでの土佐の国、39番延光寺から24番最御崎寺まで、16か寺を巡り歩いた道中は、「修行の道場」と言われるように、長距離の移動です。

 伊予の国から山を越え、四国最南端の足摺岬を経た後に、四万十川仁淀川の清流を見て、高知市の近郊へ。その後、桂浜や五色台など、高知市の市街地を回り込むような道筋で東へと進みます。土佐の国の後半は、海と山が迫る場所。最後は、最果ての室戸の岩場にそそり立つ、最御崎の霊場です。

 

 室戸の岩礁

 室戸岬の先端近くは、黒々とした岩礁が海伝いに広がります。大小のごつごつとした岩が連なって、人々が海に近づくのを妨げているようにも感じます。

 この地形、かつては、海の下に沈んでいたようですが、次第に隆起し、今の姿になったということです。

 室戸岬の沖合は、フィリピン海プレートが、岬に向かって沈み込み、岬がある大陸側のプレートが、少しずつ、押し上げられているのです。

 

 このあたりの内容は、岬近くの観光用駐車場に掲げられた、ジオパークの案内板に、分かりやすく図が描かれた解説がありました。地球自体が今も息づき、僅かずつではありますが、その姿を変貌させているのです。

 

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室戸岬岩礁空海はこの岩礁を見て修行を続けたのだと思います。

 御厨人窟

 空海は、阿波の国での修行の後、室戸岬に向かいます。この時の様子について、神峯寺(こうのみねじ)に掲げられた伝記では、次のように書かれています。

 

 「阿波の大滝嶽で修業中、邑人(むらびと)私度僧(空海)の修行に感動して協力を惜しまなかった。次の修行地を尋ねると、何れか適地があればと話す。邑の漁民が度々室戸岬に出漁し、その際、岬の鼻の近くに洞窟を見かけた話をする。教海(空海)は正にその洞窟こそ修行の場であると定め、漁民の舟に乗せてもらい、洞窟前に来るも波は荒く、舟が着岸できる状況ではなかった。止むを得ず、岬を西に廻り、やっと着岸でき、そこから洞窟に徒歩でたどり着いた。この岬が最御崎である。教海(空海)は石上に座して動かず、五十日行法の虚空蔵菩薩の三昧に住した。」

 

 このように、空海は、村人の舟で室戸に向かうと記されているのですが、司馬遼太郎の「空海の風景」では、次のように描かれているのです。

 

 「『浜づたいで行くわけには参らないか』・・・『鳥ならでは、とても』・・・海岸はほとんどが断崖か岩礁でたえず激浪がとどろき、とても人の通過をゆるさない。結局は山路になるが・・・一丁(約100m)をゆくにも一日以上もかかる日があるかもしれない。」

 

 ということで、陸路の密林を越えて室戸に向かったとの記載です。

 舟で向かったにせよ、陸路を進んだにせよ、その手段は別として、いかに室戸の地が、最果てのところであったか、想像に難くないと思います。

 

 何れにしても、空海は、室戸岬御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟で、厳しい修行に臨むことになるのです。

 

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御厨人窟の洞窟。今は、中には入れません。

 「『地の涯て(はて)か』空海がもとめていたのはそこであったようにおもえる。(そのほつこそ、天に通ずるところではないか)と、詩的情感がつねに形而上的世界へ舞いあがるこの若者は、確信を持ってそう想像したにちがいない。そのほつにおいて虚空蔵の真言を唱え、『虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)*1』を修すれば、あるいは天へ通いうるのではないかと思える。」

 

 これも、「空海の風景」の中の一文です。このような心情を抱きつつ、空海は、無心に修行をおこないます。

 

 そして、しばらくの後、空海は、この御厨人窟の洞窟から明星を認めます。しかも、その明星は洞窟に近づいて、遂には、空海の口の中へと入るのです。

 この明星の出来事は、空海のその後の人生を決定づけたと言われています。明星自体の出来事は、伝説ではありますが、俗にいえば、悟りを得たということなのか。空海は、その後、唐に渡って、恵果和尚から密教のすべてを授けられることになるのです。

 

 空海が室戸の地で修業した、御厨人窟の洞窟は、今でもその場に残っています。今は、周辺に柵が廻らされていて、洞窟に近づくことはできません。

 それでも、この場所の前に立つとき、1200年の時を隔てて、その中に、空海の影を認めるような気がします。

 

*1:Wikipediaによると、一定の作法に則って真言を百日かけて百万回唱えるというもの。