旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]84・・・箱根の坂道

 続く坂道

 

 三島宿と箱根宿の間の距離は、およそ15Kmの行程です。「箱根八里は馬でも越すが」と言われてきたのは、その通り。それでも、延々と続く上り坂は、並大抵ではありません。山道に慣れない体に鞭を打ち、坂道をひたすら歩き続けます。

 ただ、救われるのは、坂道の表情が変わること。道は単調な姿ではなく、坂ごとに、その装いを新たにして、旅人を迎えます。次から次へと襲いかかる箱根坂。気持ちを切り替え進みます。

 

 

 塚原新田

 旧道に入った街道は、塚原新田という町の、中央付近を縦断します。道は綺麗に舗装され、歩きやすそうな坂道ですが、勾配がかなりある他、真っ直ぐな直線道路で、思ったよりもきつく感じてしまいます。

 

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※塚田新田の坂道。

 

 この坂道が、数百メートル続いた後で、国道1号線に再接近。僅かの間、国道と旧道が隣り合わせで進みます。

 

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※左、国道と平行する街道。右、中央やや左に見える地道の坂道が臼転坂。

 

 臼転坂

 その先で、街道は山道に入ります。次に迎える坂道は、臼転坂と呼ばれています。牛がこの坂で転がったとか、臼を転がしたからなどと言われているようですが、その真意は不明です。比較的緩やかな勾配の山道は、少し広い道幅で、昔のままの道筋が残っているように感じます。

 

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※臼転坂。

 やがて、山道は、舗装道路に合流します。この道は、旧国道の道筋かも知れません。この先が、市山新田と呼ばれる集落で、道沿いには、比較的新しい住宅が並びます。

 私たちは、春の光を浴びながら、箱根の道を進みます。

 

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※舗装道路との合流点。

 山新

 市山新田の集落の入口には、よく手入れされた、2列の六地蔵がありました。何とも愛らしいそのお姿を見た時は、思わず、掌を合わせたものでした。

 集落を進んで行くと、法善寺というお寺の表示です。そして、その先で、道は2手に分かれます。

 

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※左、六地蔵。右、法善寺の案内表示。

 

 街道は、この、”市の山新田”の交差点を左の方に入ります。そして、そのすぐ後で、右上方にある、階段を上ることになるのです。

 旧国道と思える道は、交差点から右方向に向かいます。私たちが進む左の道は、その先で、ゴルフ場や農場などにつながっているようです。

 

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※市の山新田の交差点。

 

 題目坂

 交差点から先の道は、一旦、少しだけ下ります。その後、道路が左に迂回する寸前で、右方向の階段を上るのです。

 この位置には、親切な標識があるために、道を迷うことはありません。指示通り、急な階段を進みます。

 階段の途中にあった標識は、”題目坂”との表示です。この急な石段と、その先の集落に続く坂道が、題目坂だと思います。後ほど、少し触れますが、次の三ツ谷新田の集落には、松雲寺という日蓮宗の寺院があるのです。「妙法蓮華経」とお唱えする、日蓮宗の”題目”に、この坂の由来があるのでしょう。

 階段の終わりがけには、先ほどの法善寺に由来する、お堂跡の石標などがありました。そして、その先に見えてきたのが、小学校。街道は、小学校のグラウンドに沿うように、左方向に進みます。

 

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※左、題目坂への階段。右、階段の上部。

 

 三ツ谷新田

 小学校のグラウンドを過ぎた先で、街道は、再び、旧国道と合流します。この辺りの左手は、箱根の裾野が広がって、眺望の良いところです。

 しばらく進むと、三ツ谷新田の集落に入ります。坂道に沿うように集落が延びていて、そこそこの規模を誇っています。かつては、街道の休憩地として、位置付けられていたのかも知れません。

 

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※三ツ谷新田の集落に向かう街道。

 集落の途中には、先ほど触れた、松雲寺という、由緒ありそうなお寺がありました。日蓮宗のこの寺は、大名たちの休憩所として利用されていたということです。

 

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※松雲寺。

 

 こわめし坂へ

 街道は、三ツ谷新田の集落を抜けた先で、旧国道から左にそれて、森の中へと向かいます。この道は、旧道ですが、舗装された道路です。木々が覆う細い道を山に向かって進みます。

 

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※左、旧国道がカーブする辺りを、左前方の旧道に進みます。右、旧道の入り口辺り。

 街道は、この先で、次第に勾配を増していき、急坂へと変わります。歩く速度は、極端に鈍くなり、休憩の回数が重なります。

 この坂道は、下長坂と言うそうですが、別名、”こわめし坂”と呼ばれています。道沿いにあった案内板には、「急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになるからだという。」と、書かれています。

 

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※こわめし坂の様子。

 

 この急坂の途中にも、笹原新田という集落があり、民家が軒を連ねています。やがて、街道は、左右につながる舗装道路に出くわします。この舗装道路を左に向かうと、三島スカイウォークに行けそうですが、多くの人は、もう少し先の方からアクセスすることになるようです。

 

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※舗装道路が横切る交差点辺り。

 

 笹原一里塚

 舗装道路を横切って、真っすぐに進んで行くと、その先は、美しく修景された、石畳の道に入ります。

 相変わらずの坂道ですが、勾配は緩くなり、心地よく歩ける区間です。

 

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※石畳で修景された笹原の街道。

 

 やがて、街道の右側には、笹原の一里塚の案内です。木々が茂る斜面にあるため、塚の姿は鮮明ではありません。周囲の景色に同化され、静かに道往く人を見守っている様子です。

 街道の左手は、一気に空間が開けます。そして、その先には、三島スカイウォークの施設が見えました。

 箱根の坂の、中間辺りに設置されたこの施設。坂を上る私たちが、昼食をとる場所として、目標にしていた地点です。朝の10時に三嶋大社を出発し、スカイウォークに到着したのが、丁度、正午のことでした。

 この先、峠まではあと半分、と、ホッとした気分になったのですが、実はこの先、まだまだ厳しい急坂が、延々と続くということを、この時点では知る由もありません。

 スカイウォークのベンチに腰掛け、箱根のお湯に浸かる気分を思い描いて、気分よく、昼食のおにぎりを頬張ります。

 

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※左、笹原の一里塚。右、スカイウォークへの道。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]83・・・三島宿から箱根の坂へ

 東海道の最終章

 

 今回から、「歩き旅のスケッチ[東海道]」に戻ります。箱根の山への上り道から始まって、江戸日本橋まで、東海道を歩いてつなぐシリーズの最終章。

 この区間には、名所や観光地が目白押し。最後の”海道”歩きを楽しみます。

 

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※左、箱根の杉並木から芦ノ湖と富士山を望みます。右、藤沢市時宗総本山遊行寺(ゆぎょうじ)。

 

 箱根への道

 三島宿から東に向かう東海道。ほどなく、箱根の山への、厳しい道中が始まります。どこまでも続く坂道は、心が折れそうにもなりますが、この難所を克服すれば、相模の国に入ります。

 伊豆の国から相模の国へ。一歩ずつ、歩みを進めて、箱根峠を目指します。

 

 

 三嶋大社から

 前回、歩き旅を終えたところは、三島宿の東にある、三嶋大社の鳥居前。それからおよそ1か月、この地点に戻ってきたのは、昨年(2021年)3月のことでした。

 今回は、数日で、箱根峠を克服し、一気に平塚まで向かう計画です。この行程が終了すると、あともう一息で江戸日本橋。いよいよ東海道の歩き旅も、終盤へと向かいます。

 

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三嶋大社前。

 

 三嶋大社を出た後は、しばらく、市街地を歩きます。前方には、箱根の山が屏風のように横たわり、行く手を阻むような圧迫感を与えています。近くの斜面に姿を見せる、ベージュ色の大きなビルは、病院か介護関係の施設でしょうか。ひと際、目を引く建物です。

 

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三嶋大社を過ぎた辺りの街道。

 

 途中、小さな川を渡ったところで左を見ると、美しい富士の姿が見えました。やがて、市街地の主要道路は、右方向に大きく迂回。街道は、ここを道なりには進まずに、真っ直ぐ延びる旧道に入ります。

 

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※左、大場川に架かる橋と富士山。右、旧道への入口。

 今井坂と愛宕

 旧道に入った先は、道幅が狭くなり、しばらく進むと、坂道に変わります。それでも、道沿いには住宅などが張り付いて、旧市街地の外れのような光景です。

 この辺りの坂道は今井坂と呼ばれています。そして、やがて、JR東海道本線の踏切です。旧東海道踏切と呼ばれる通り、この鉄道は、まさに、旧東海道を横切って、三島駅函南駅をつないでいます。

 

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旧東海道踏切。

 踏切の向こう側は、小高い丘のようなところです。街道は、その丘をS字状に蛇行しながら上ります。この上り坂が愛宕坂。坂の右には、市街地から見えていた、ベージュ色の大きなビルが、ずっしりと構えています。

 坂の上には、「箱根旧街道 愛宕坂」と表示された、案内板がありました。そこには、この坂についての簡単な紹介が。ここで少し、その内容を紹介したいと思います。

 

 「・・・この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なところでした。そこで幕府は、1680年に、それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷きつめて『石畳の道』に改修したものです。その石畳を1769年に修理した記録によると、『愛宕坂では、長さ140m、幅3.6mを修理した』とあり、当時の道幅がわかります。」

 

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愛宕坂。

 

 今の愛宕坂は、上の写真のように、石畳風に新たに整備された歩道です。それでも、この道の地中には、往時の石畳が、そのまま埋まっているところもあるようです。

 

 初音原(はつねがはら)の松並木

 愛宕坂を上り切り、少し、平坦なところに出てくると、街道は、国道1号線に合流します。そこは、五本松の交差点。一旦終わった坂道も、ここから再び、次の坂道に入ります。

 辺りは、三島市の郊外の雰囲気で、事業所や新しい住宅地が広がります。道は、国道に沿った歩道が整備され、歩道と車道の間には、素晴らしい松の並木が続きます。

 これから先は、標高を下げることなく、ひたすら箱根の山へと向かうのです。

 

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※左、五本松交差点。右、箱根旧街道松並木の案内板。

 初音原の松並木は、これまで通った幾つかの並木道とは、少し趣が異なります。その素晴らしさは、御油や舞阪の並木道と変わるところはないものの、箱根に向かう坂道の並木とあって、何となく、重みを感じます。

 

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 錦田の一里塚

 松並木の中ほどに、錦田の一里塚がありました。立派な塚や木々の様子は、往時の姿を彷彿とさせますが、国道の向こうを見ると、同じ姿の一里塚がもうひとつ。幹線道路の国道1号線の沿線に、上下線で対を成す、立派な塚が残っている光景に、感動を覚えたものでした。

  

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※錦田の一里塚。

 やがて、松並木を抜け出ると、伊豆縦貫自動車道路をまたぎます。その先で、縦貫道路のランプ道と交差して、街道は、次の坂道に入ります。

 

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※三島塚原ICの交差点。真っ直ぐ延びる道路は、箱根峠に向かう道。

 

 ランプ道と交わるところは、三島塚原ICの交差点。街道はその先で、左手の旧道の坂道に入ります。旧道への入口には、”箱根路”と刻まれた、横長の大きな岩がありました。国道沿いの松並木といい、重量感ある石標といい、箱根が、日本の象徴であることを誇示するような、重みのある設定です。

 

 真っ直ぐ延びる国道は、ここから箱根越えのドライブ道に入ります。その脇を、ひっそりと、峠に向かう東海道。急坂が続く厳しい道ではありますが、今も、往時の様子が残る区間もそこそこあって、変化に富んだ道筋です。

 

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※国道1号線から旧道へ。”箱根路”の石標も置かれています。

出会い旅のスケッチ15・・・下北半島(2)

 最果ての地

 

 本州の北の端の下北は、自然が厳しいところです。陸奥湾沿いの、僅かな農地からの収穫と、湾内の水産物が、地域の生活を支えます。平坦地は限られて、山地や崖地が半島の大半を覆っている状況です。

 冬の季節は北風が厳しくて、風雪に悩まされることも多いでしょう。半島の北側は、海峡や太平洋の荒波の中、漁業を生業とする方も、厳しい自然の中で暮らしています。

 この最果ての地に、活路を賭した会津藩。新政府に抗った人々の生活は、いかばかりであったのか。その困難を思うとき、歴史の傷みを感じない訳にはいきません。

 

 

 尻屋崎へ

 恐山を後にして、下北の東端、尻屋崎に向かいます。釜臥山の坂を過ぎると、道はそれほど厳しくはありません。緩やかに上り下りを繰り返し、点在する、集落をすり抜けます。やがて、防風林に挟まれた、真っ直ぐな道路を進んでいくと、その先は北の海に接近した、崖地の道に変わります。

 荒涼とした景色の中をさらに進むと、鉱石の採石場のような工場が現れます。半島の自然が広がる最果ての地に、突如姿を見せる機械群。何とも、興醒めとしか言いようがない光景です。

 道はその先で、二手に分かれ、左方向が尻屋崎。自動で開く踏切のようなゲートを通って、岬へと向かいます。このゲートは、夕刻から朝までの、通行時間制限のために設けられている様子です。夜間には、尻屋崎への侵入は禁止されているのかも知れません。

 

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※尻屋崎と灯台

 

 尻屋崎

 ゲートの先は、草原のような台地が広がります。以前は、ここに、野生の馬がいた記憶がありますが、今回は、馬を見ることはできません。

 草原をさらに進むと、尻屋崎の突端です。そこには、白亜の美しい灯台が、その姿を誇示しています。

 私たちが尻屋崎を訪れた時、北西風が厳しくて、歩くのも、大変な状況でした。常日頃、このような風が吹くのかどうか。ここからも、厳しい自然の有様を感じ取ることができました。

 

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※尻屋崎の様子。

 

 斗南藩史跡地

 尻屋崎から、むつ市へと戻る途中に、斗南藩(となみはん)史跡地に立ち寄りました。現在のむつ市の市街地にほど近く、小高い丘のようなところに、この史跡地はありました。

 下北は、新政府に敗北し、会津を追われた人たちが、領地をあてがわれたところです。島流しともとれるような、最果ての地への移住を決行し、新天地を求めた会津藩。苦難の道は、続きます。

 

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会津の人たちが斗南藩を設けて、ここに市街地を設置しました。

 

 この史跡地は、「斗南ケ丘市街地跡」と呼ばれています。敷地内の説明版には、次のような記述がありました。

 

 「斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって『斗南ケ丘』と名づけられました。明治三年一戸建て約三十棟と二戸建て約八十棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打を禁止し、十八ケ所の堀井戸をつくりました。・・・しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。」

 

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※史跡に置かれた説明板。

 

 会津と斗南

 「獅子の時代と斗南ケ丘」と題された、もうひとつの説明板。そこには、会津と斗南の歴史について、ごく簡潔に記されています。

 

 「東北の獅子と呼ばれた会津藩戊辰戦争明治新政府の追討をうけ、明治元年(1868)九月に降伏の白旗をかかげた。明治二年(1869)一年一ケ月余りで家名再興が許され、当時生後五ケ月の松平容大(かたはる)公が跡を継ぎ三万石を与えられ、明治三年に藩名を斗南藩とした。」

 「明治四年七月、廃藩置県が行われる。九月には斗南県を含む五県が弘前県に合併され、さらに翌年には政府の援助も打ち切られるなど、時代の移り変わりに翻弄され多くの藩士が斗南を去る結果となった。」

 

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福島県会津若松市鶴ヶ城。以前訪れた時に写した写真です。

 

 司馬遼太郎も、『街道をゆく』の中で、次のように触れています。

 

 「戊辰(1868)九月二十二日、会津鶴ヶ城は落城し、容保(松平容保・まつだいらかたもり)は、新政府軍に降伏した。会津藩の石高は最末期には役料を含めて四十五万石とされたが、戦後没収され、下北半島(斗南)に移された。石高はわずか三万石だった。もっとも下北半島では米がほとんど獲れないために、その三万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる。」

 

 わずか数年で離散状態となった会津藩飯盛山の白虎隊に象徴される獅子の国も、歴史に翻弄され続け、その姿を消すことになるのです。

 斗南藩の史跡地は、過酷な歴史と自然環境に活路を絶たれた、会津の人の終焉地。何となく、寂しさを感じる場所でした。

 

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※斗南ケ丘の様子。

 それでも、会津の人々は、この地に大切な足跡を残します。何回も引用してきた、司馬遼太郎の『街道をゆく』の中では、そのことに触れられている箇所があるのです。

 その功績が綴られた一文を、是非ともお伝えしておきたいと思います。

 

 「斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状の中で、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。旧会津藩の藩校日新館の蔵書をこの田名部に移し、さらにあらたに購入した洋書を加えて、会津時代と同名の日新館を興したのである。・・・田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだった。この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる。」

 

 家訓15ケ条や什の掟(じゅうのおきて)に象徴される、会津藩の精神は、下北の地へも引き継がれていったのです。

 

 再び円通寺

 恐山に向かう途中に立ち寄った円通寺。街中に残るこの寺に、斗南藩の藩庁が設置され、藩政が執り行われることになりました。また、ここには、松平容大が、わずか3歳でありながら、藩主として暮らしたということです。

 先に記した藩校の日新館も、この敷地に設けられることになりました。むつ市は、福島の会津とのつながりを持つ、本州最北の都市なのです。

 

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円通寺

 

 「出会い旅のスケッチ」の津軽と下北のシリーズは、今回が最終回。次回から、「歩き旅のスケッチ[東海道]」に戻ります。

 東海道の街道歩きは、いよいよ、箱根の山に差し掛かり、最大の難所へと向かいます。見どころ多い東海道。歩き旅の様子を綴り、その魅力をお伝えしたいと思います。

 

出会い旅のスケッチ14・・・下北半島(1)

 下北半島

 

 下北は、青森県の北東にある、斧のように突き出した半島です。最北端は西側の大間崎。ここは、北海道の松前より、緯度的には北の位置にあたります。

 津軽とともに、気候的には厳しい土地でありながら、人々は、たくましく、新たな時を刻んでいるように感じます。

 

 

 下北へ

 浅虫温泉から、東に向かうと、野辺地(のへじ)の町に入ります。下北へは、そこから国道伝いに、一気に北へと進むのです。

 鉄道も、JR大湊線陸奥湾に沿って北上します。辺りの様子は、小さな農地もありますが、雑木林が点在し、自然のままとも感じられる、荒涼とした景色が続きます。

 

 むつ市

 やがて、左手に陸奥湾の姿を捉えると、下北の中心地、むつ市の街に近づきます。むつ市は、私が学生の頃も訪れたところです。その頃聞いていたのは、この街は、2つの町が合併してできた市だということです。

 その当時、市街地は、少し離れた位置に分かれていたような気がします。今回、再び訪れた時の印象は、街はそこそこ連担している様子です。時代が進み、ひとつのまとまりのある市街地へと、移り変わったのかも知れません。

 

 私たちは、街の入り口近くに差し掛かり、先ずは、下北水産センターや卸売市場を訪れました。名産のホタテの刺身は新鮮で、ぜひとも味わって頂きたい逸品です。

 

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※下北水産センターに隣接する卸売市場とホタテの定食。

 斗南藩(となみはん)

 下北は、福島の会津藩戊辰戦争に敗退し、新天地として領地を充てがわれたところです。冬の寒さを耐え忍び、この地で、何とか再興を期すことになったものの、食糧の調達などには大変な苦労がありました。

 この、会津藩のことについては、次回に、少し触れたいと思います。私たちは、次の目的地の恐山に行く途中、会津の人が斗南藩の藩庁を設置した、街中の円通寺を訪れました。

 今回は、円通寺の外観だけを紹介し、霊場恐山に向かいます。

 

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斗南藩の藩庁が置かれていた円通寺

 

 恐山へ

 円通寺を出た後は、道はすぐに市街地を離れます。次第に坂の勾配も増してきて、遂には山道へと変わります。

 恐山(おそれざん)は、むつ市の市街地の北西側、およそ10Kmほどのところです。釜臥山(かまぶせやま)の北の斜面をすり抜けて山道を進みます。急坂を上り進んで、峠のようなところを通り過ぎると、今度は急勾配の下り坂。坂道を下りきったところが宇曽利湖(うそりこ)という湖です。

 湖畔には、朱塗りの欄干が鮮やかな、太鼓橋が架かります。下を流れる小さな川は、三途の川。ここを過ぎると、あの世への道なのか、辺りには、厳かな空気が流れています。

 

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※左、太鼓橋。右、奪衣婆(だつえば)と縣衣翁(けんねおう)の像。

 恐山
 三途の川を越えてから、数百メートル進んで行くと、恐山の霊場の駐車場に入ります。霊場は、駐車場の右奥で、その手前には、土産物店などもありました。

 

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※恐山駐車場と総門。

 

 恐山は、地理的には、宇曽利湖を中心とした周辺地域を指すようです。そもそも、この辺りは、火山のカルデラ状になっていて、すり鉢状の地形です。その一角に、観光地で有名な、霊場恐山があるのです。

 ”恐山”の地名については、司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、「恐山のオソレは、宇曽利のウソリから転訛した。もとはアイヌ語だったにちがいない。」と記したように、恐山は、宇曽利湖と共に在るのです。北海道にほど近いこの土地は、アイヌの文化も、そのどこかに引き継がれているのだと思います。

 

 霊場恐山

 霊場恐山は、正面の総門から入ります*1。総門をくぐった先には、勇壮な山門が、正面に構えています。真っ直ぐ続く参道の、左に見える赤い屋根の建物が本堂で、右側に連なっている建物が寺務所だということです。

 

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※正面が山門。

 山門をくぐると、正面奥には、立派なお御堂がありました。このお御堂は、地蔵殿と呼ばれていて、本尊の地蔵菩薩を祀っています。通常の寺院であれば、本堂にあたる位置。地蔵殿こそ、この霊場の最も重要な施設なのだと思います。

 地蔵殿の左には、岩が露出したような、荒涼とした丘が広がります。”地獄”と呼ばれるその場所からは、水蒸気があがる様子も窺えます。

 参道の左右には、バラック建の建物が。これが、共同浴場です。

 私たちは、先ずは、地蔵殿に参拝し、次いで、地獄へと向かいます。

 

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※地蔵殿と境内。

 

 恐山の歴史

 霊場恐山のことについて、少し触れておかなければなりません。入山時に頂いた資料によると、「今からおよそ千二百年前の昔、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さまによって開かれた霊場です。地蔵菩薩一体を自ら彫り、霊場の本尊とされました。」とのこと。

 遣唐使として、大陸で多くを学ばれた慈覚大師は、帰国後、各地を巡り歩かれたということです。そして、この恐山に足を踏み入れ、開山された訳ですが、「この地は、宇曽利湖を中心に八峰がねぐり、その形あたかも花開く八葉の蓮華にたとえられ」るような印象を抱かれたのだと書かれています。

 「また火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞらえられ、信仰と祈りの場として伝えられて」きたようです。

 

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※地獄の風景。

 

 イタコ

 恐山と言えば、イタコのことを連想される方も多いでしょう。イタコは、巫女のような姿をして、亡くなった人の霊を呼び込む、呪術(じゅじゅつ)家のような人のこと。自らがその霊に成り代わり、説教などを行います。

 恐山では、このイタコの方を観られるかと、期待をしていましたが、今では、特別な時しか来られない様子です。結局、その姿を拝むことは出来ず仕舞いとなりました。

 

 私たちは、硫黄臭が漂う中で、地獄めぐりを行って、宇曽利湖のほとりにある、極楽浜へと向かいます。

 

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※極楽浜の様子。

 

 今も多くの人たちが、「死ねばお山に行く」と信じておられるようですが、その「お山」のひとつが、恐山の霊場でもあるようです。資料にも、「肉親の菩提を弔い、故人の面影を偲ぶ多くの人が、今もお山をめざします。」と記されているように、恐山は、どこか、黄泉の国に最も近い場所なのかも知れません。

 

 

*1:霊場への入山料は500円。これで、中にある温泉にも入れます。

出会い旅のスケッチ13・・・津軽半島(5)

 太宰治の足跡

 

 今回の「出会い旅のスケッチ」は、津軽半島を巡る旅。太宰治の『津軽』とともに、幾つかの史跡名勝を訪れました。

 いよいよ、このシリーズも最終回。太宰治が、若き日に、暮らし訪ねた思い出の地を巡ります。

 

 

  五所川原

  金木から、五所川原の中心までは、10Kmほどの道のりです。稲穂が実る津軽平野を南に向かい、街の中に入ります。

 五所川原は、駅の西側が旧市街地で、東側は、住宅や新しい郊外型の街並みが広がります。JRと津軽鉄道の2つの路線が合流する、津軽平野の中心地とも言えるところです。

 駅は、路線ごとに分かれていて、隣り合わせに並んでいます。特に、津軽鉄道の駅舎については、私が学生の頃訪れた時の面影が、そのまま残っているような建物で、懐かしく感じたものでした。

 

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津軽鉄道五所川原駅

 この五所川原太宰治が慕っていた、彼の叔母の家があったところです。

 『思ひ出』では、幼少の頃のかすかな記憶が、叔母と共にあったことを、温もりの中で綴っています。『津軽』では、「幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びにきた。」と記されていて、五所川原は、太宰治の馴染みの街だったことが分かります。

 『五所川原』という随筆では、旭座と言う芝居小屋か、映画館の話題も出てきます。太宰治が歩いたの頃の、五所川原の街中の情景を思い起こして、駅前の、メイン道路を見つめます。

 

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※左、五所川原の駅前。タクシーの向こうの建物がJRの駅舎。右、駅前通り。

 

 五所川原駅前通りは、随分と新しい街に変わっています。それでも、ところどころに、昔の面影も残していて、時間があればゆっくりと散策したいようなところです。

 

 浅虫温泉

 五所川原から、次に向かった先は、青森市の東隣の温泉町、浅虫温泉というところ。浅虫温泉は、全国的にも有名な温泉地。テレビでもよく紹介されるため、ご存じの方もおられると思います。

 私たちはこの温泉地で宿をとり、その後、下北へと向かいます。

 

 浅虫温泉は、太宰治が中学の頃、母親と末姉が、一時期逗留していたところです。それほど大きな温泉地ではないものの、市街地の近くにあるために、昔から、多くの人が訪れる場所でした。

 ところが、私たちが訪ねた時は、それこそ、新型コロナの影響で、閑散とした状態でした。裏寂しい、北の国の温泉地。静かに湯煙の香りを味わいながら、一夜を過ごすことになりました。

 

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浅虫温泉駅

 

 太宰治は、『津軽』の中で、「青森市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。」として、母親が逗留していた頃の思い出を綴っています。

 太宰治の中学校は、青森市にあったため、時折、この温泉地を訪れていたのです。

 

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浅虫温泉の海岸から青森市方面を望みます。

 浅虫温泉の海岸は、陸奥湾を臨む位置。西には、岩木山の美しい姿を捉えることも可能です。曇天の陸奥湾は、どこか裏寂しい場所ですが、その悲しげな風景は、一方では、旅情を誘う効果にも、寄与しているように思えます。

 

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浅虫温泉の海岸の風景。

 

 弘前

 この後、私たちは、下北へと向かうのですが、下北の紹介は次回にまわし、太宰治が高校の時暮らしていた、弘前のことに触れたいと思います。

 弘前は、津軽平野の南に位置し、津軽藩の拠点の地だったところです。下北半島を巡った次の日に、城下町、弘前を訪れました。

 

 弘前城

 私たちが、弘前で車を停めたところは、弘前城のすぐそばにある、津軽藩ねぷた村の駐車場。そこには、ねぷた祭りを紹介する、文化センターがありました。ただこの時は、新型コロナの余波を受けて休館中。幾つか並ぶ土産店を覗きながら、城の方へと向かいます。

 

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ねぷた村の土産物店。

 

 弘前城は、戦国武将の津軽為信が築城した名城です。司馬遼太郎の『街道をゆく』の中では、「日本七名城の一つといわれるが、この優美な近世城郭が僻陬(へきすう)の地の津軽に出現したこと自体、奇跡にちかい。」と書かれています。

 陸奥の、奥地とも言える津軽の土地に、立派な城を築いた津軽為信司馬遼太郎は、為信の、徳川家康に対する忠誠心が、その背景にあったようだと綴っています。

 

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※左、堀の様子。右、北門をくぐった先の県護国神社


 天守

 築城当時弘前城は、その本丸に、五層の天守閣が聳えていたといわれています。しかし、建造後、わずか17年、落雷によりその姿を消しました。

 その後、天守閣は再建されることはなく、三層の櫓を天守として、位置付けることになったのです。

 今は、この天守閣も、その基礎部分の改修中。天守閣の建物は、曳家によって、数十メートル離れた位置に置かれています。

 

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※移動されている、弘前城天守閣。

 

 弘前城天守閣のことについては、司馬遼太郎の感慨に触れない訳にはいきません。少しだけ、『街道をゆく』の一文を引用をしたいと思います。

 

 「本丸にのぼった者は、この台上の主役が天守閣でないことを悟らされるのである。私ものぼりつめてから、天守閣を見るよりも、・・・天を見ざるを得なかった。その天に、白い岩木山が、気高さのきわみのようにしずかに裾をひいていた。息をのむ思いがした。・・・三層の天守閣が、津軽平野の支配の象徴ではなく、じつはこの天守閣は、神である岩木山に仕えているのだということを知らされる。もしここに大阪城天守閣ような巨大な構築物を置くとすれば、岩木山を主役とするこの大景観に対して調和をうしなう。・・・寛永四年の落雷は、あるいは天意だったかもしれない。」

 

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※左、二の丸丑寅(うすしとら)櫓。右、本丸への道。

 

 太宰治

 太宰治は、旧制弘前高校に在籍し、3年間、この弘前で暮らしています。その間、当然ながら、弘前城の本丸にも足を延ばしている訳ですが、彼の本丸での感想は、司馬遼太郎とは、少し観点が異なります。再び、『津軽』の引用です。

 

 「弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。・・・お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。・・・私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。」

 

 天を見て、岩木山と共ににある、弘前の姿を愛でた人と、脚下を見て、古雅に佇む町の姿に、思いを馳せることになった人。

 見る先は異なってはいるものの、弘前への、津軽の土地への愛着が、伝わってくるような一文です。

 

 仲町地区

 弘前城の北門を出て、少し街中に入っていくと、歴史的な町並みや、美しい住宅地が広がります。ここは、弘前市仲町重要伝統的建築物群保存地区。昔ながらの町の姿を保存する努力がなされています。

 通りには、板塀や生け垣が延々と続きます。ただ、住まい自体は、新しく近代的な建前が多かったように思います。

 

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※歴史的な建物や、通りが残されています。

 

 仲町の一角には、旧伊藤家住宅の荘厳な門構えの屋敷なども残っていて、見どころは満載です。この住宅は、萩藩の、高杉晋作も訪れたといわれるところ。歴史を背負った建物です。

 

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※旧伊藤家住宅。

 

 太宰治のあとを追い、津軽の地を巡った旅は、ここ弘前で終了です。久し振りの津軽の空気は、懐かしく、心地よく感じたものでした。

 5回にわたり紹介してきた、「出会い旅のスケッチ」の津軽半島シリーズは、今回で一区切り。次回と次々回は、下北半島を描きます。

 

出会い旅のスケッチ12・・・津軽半島(4)

 津軽平野

 

 津軽平野の中心は、半島の付け根に位置する五所川原。ここから南に向かったところが、岩木川の上流にある、津軽藩の拠点の街、弘前です。弘前の、少し手前を東に向かうと、青森県の中心地、青森市方面で、五所川原から西に向かうと、日本海沿岸の、鰺ヶ沢能代へとつながります。

 北向きの、津軽半島の方面へは、ストーブ電車で有名な、津軽鉄道が走ります。太宰治の故郷の、金木(かなぎ)の町もその沿線の町のひとつです。*1

 津軽鉄道の終着駅にほど近い、金木の町。その町中には、今も、太宰の生家が残ります。

 

 

 十三湖

 小泊の次に向かったところは、十三湖(じゅうさんこ)。津軽半島の西海岸の中ほど辺り、少し内側に陸地が窪んだところです。ひっそりと佇むこの湖は、西は日本海に間口を開き、塩水と淡水が入り混じる汽水湖です。

 

 西海岸の国道を、しばらく南に向かっていくと、県道との分岐点。国道は、大きく左に迂回して、津軽平野の中心部へと近づきます。

 私たちは、分岐点を右方向に入ります。防風林がつながる道を、さらに南に進んでいくと、やがて、左側に十三湖が現れました。

 どこか寂し気な湖は、北の国の風景の象徴のようにも感じます。

 

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十三湖と中の島。

 

 十三湖の名の由来

 私が、かつて、津軽の旅をしていた時には、十三湖という名前の由来は、13の湖があるからだと、思い込んでいたものでした。実際に、十三湖の南には、池や沼が点在し、湿地のような状態です。ところが、その認識は、全くの見当違い。

 司馬遼太郎は、語源からの推測として、『街道をゆく』の中で、次のように綴っています。

 

 「トサはアイヌ語だという。トサに十三という漢字をあてたものの、十(と)は和訓で、三(さ)は漢音であることが、江戸時代の津軽知識人にとってあるいは気に食わなかったのかもしれない。いっそ漢音だけの十三(じゅうさん)とよびならわすようになったのではないか。」

 

 アイヌ語の”トサ”の意味まで、踏み込まれてはいませんが、元々は、”トサコ”と呼ばれていたようで、ひとつの有力な説だと思います。また、次に触れる十三湊(とさみなと)の町屋遺跡は、まさに”トサ”と発音するのです。

 

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十三湖の風景。

 

 十三湊(とさみなと)遺跡

 十三湖の河口に架かる橋を越え、集落の中に入っていくと、その先に、十三湊の町屋の遺跡がありました。そこには、「中世十三湊(とさみなと)の町屋跡」と表示された簡単な案内板も置かれています。

 今は、砂地の畑の状態ですが、この辺りの砂の下には、14世紀末から15世紀前半頃に栄えたとされている、湊に面した大きな町が埋もれているのです。

 

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※十三湊の町屋遺跡の案内板。

 

 十三湊のことについては、司馬遼太郎の『街道をゆく』の中に、少し詳しく書かれています。その一部を抜粋させていただくと、往時のこの地の繁栄ぶりが分かります。

 

 「文献的には幻に近かった中世十三湊の実像は、近年、考古学によって圧倒的な迫力であきらかになった。・・・十四世紀の室町時代、最盛期を迎えた十三湊が、本格的な都市設計のもとでつくられた中世都市だったこともわかった。都市建設の背骨は、南北をつらぬいている幅六メートルの中軸街路である。この道路が一・五キロの長さをもっていた。・・・全体として約五千人が住んでいであろうという推定もおこなわれた。中世都市としてなみなみなものではない。」

 

 十三湊は、十三湖を巧みに利用した大きな湊だったということで、北海道や日本海沿岸都市と、海上を結びながら、交易を行っていたのでしょう。

 いつの日か、姿を消した十三湊。中世の中心地でありながら、その役割は、長続きすることはなく、人々の記憶からも遠ざかっていったのです。

 

 金木へ

 北の地の湊で栄えた、都市の跡を偲んだ後は、穀倉地帯の中心地、金木の町に向かいます。

 黄金色の、収穫間近い稲穂が広がる津軽平野の真っただ中を、南へと進んで行くと、少し大きな町に入ります。そこが金木と呼ばれるところ。昭和の頃の雰囲気が感じられるような家並みも見られます。

 

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※金木の町と斜陽館。

 斜陽館

 町の中心地に近づくと、赤レンガの重厚な塀とともに、立派な屋敷が現れました。

 ここが、斜陽館。太宰治の生家であり、この辺りの富豪であった、津島家のお屋敷だった建物です。斜陽館の向かい側、銀行の奥に車を停めて、屋敷の周囲を歩きます。

 

 今からもう随分と前のこと、私が大学1年生であった時にも、この斜陽館を訪れました。その頃は、斜陽館は、旅館だったと思うのですが、中に入れて頂いて、見学したことを覚えています。

 今は、周辺の町の様子は変わっていますが、建物や塀の感じは、昔のままにの状態です。懐かしい思いを抱いて、玄関前に立ちました。

 

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※斜陽館の玄関前。

 

 斜陽館は、今は、太宰治記念館として運営がなされています。勿論、”斜陽”という名は、小説『斜陽』に由来していて、インパクトある名称です。

 私が学生時代に訪れた時、館の中はよく保存され、太宰治の若き日の情景が、思い浮かぶような空間でした。重厚な、屋敷の佇まいに触れながら、しばしの間、感動に浸ったことを覚えています。

 今回、私たちが訪れたのは、昨年(2021年)9月のことでした。この頃は、生憎と、新型コロナが蔓延している真っただ中。斜陽館は臨時休館の時でした。

 

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※斜陽館。

 

 それでも、この地を訪れたいと思った理由は、もう一度、ありし日の太宰治に出会ってみたかった、ということに他なりません。今回の津軽の旅では、ぜひとも訪れたい場所だったのです。

 

 太宰治は、38歳で、自ら命を絶ちますが、そのわずか数年前に、故郷津軽を巡ります。小説『津軽』は、人生の最後の思い出として、この地での、忘れられない出来事を、脳裏に深く刻んでおきたかったのかも知れません。

 

*1:金木は、今は五所川原市に属しています。十三湖の辺りも五所川原市ですが、そこは、飛び地の状態になっています。

出会い旅のスケッチ11・・・津軽半島(3)

 西津軽

 

 津軽半島の西側は、変化に富んだ風景が特徴です。竜飛岬とその少し南の地域は、険しい崖地が続きます。その後は、高台から、一気に海へと下る道。北日本海の荒波に吸い込まれるようにして、海岸線に下り立ちます。

 平地に下りると、小泊という、小さな町を通過して、その先が十三湖の湖です。やがて、津軽平野に入っていくと、広大な田園地帯が広がります。ストーブ電車で有名な、津軽鉄道の軌道が走るこの土地は、厳しい冬を抱えつつ、北の地に、恵みをもたらす大地です。

 

 

 竜飛の海岸

 竜飛岬の高台から、坂道を下って目の前の海岸へ。そこには、小さな公園と、その先に、小さな集落がありました。

 海岸線は、整備が進んではいるものの、海は、ごつごつとした岩場が広がります。

 

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※竜飛の海岸線。

 

 ここは、太宰治がN君と、三厩(みんまや)から徒歩で辿り着いたところです。道端の公園には、横長の少し変わった形をした、大きな石碑がありました。そこには、『津軽』の中に記された、一つの文章が彫られています。

 この石碑を見た時は、故郷の文豪を誇りに思う人達の、熱い心が伝わってきたような、暖かな気持ちになりました。

 

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※『津軽』の一文が刻まれた石碑。

 

 津軽』の一文

 『津軽』の中の一文は、ここで紹介しない訳にはいきません。太宰治がN君と、三厩の町を出て、徒歩で海岸伝いを歩き続けて、ようやく辿り着いた、竜飛の村を目にした時の感想です。

 

 「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

 

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※旧奥谷旅館と竜飛の村。

 

 奥谷旅館

 竜飛の村に並んでいた民家などの建物を、太宰治は、「鶏小舎」と形容しますが、それほど、自然厳しい最果ての村だったということでしょう。津軽平野の真ん中で、裕福な資産家の家に生を受けた太宰にとっては、まさに、天と地のような光景に写ったのかも知れません。

 

 太宰治とN君は、この後すぐに、竜飛の旅館に入ります。その旅館こそ、奥谷旅館。今は、「龍飛岬観光案内所 龍飛館」として残っています。

 

 この龍飛館、無料で内部が見学出来て、ひと時の間、太宰治を偲ぶことができるのです。内部には、太宰とN君の写真が置かれた部屋もあり、昭和19年の5月の半ば、この部屋で、2人が大酒を喰らった光景が、蘇ってくるようなところです。

 

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※奥谷旅館の客室。

 

 龍飛館では、様々な資料や写真なども見られます。特に貴重な資料としては、太宰治の名前が書かれた宿帳です。そこには、太宰治の名前の隣に、中村貞次郎との名前があって、この人こそが、『津軽』の中のN君だと、ある種、感動を覚えたものでした。

 もうひとつは、古い写真の展示です。それらを見ると、戦後間もない頃の、竜飛の村の様子などが分かります。そのほかに、建物の前に立つ老婆が写った写真からは、太宰たちが訪れた時、酒の給仕をされた方なのかと、感慨深く見入ってしまったものでした。

 

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※左、展示資料の宿帳。右、古い写真の展示。

 

 西海岸へ

 竜飛岬を後にして、私たちは半島の西側に向かいます。最初は、山道のようですが、やがて、日本海を見下ろす景色が素晴らしい、草地の崖道に出てきます。

 この辺りからの眺望は、稀に見る絶景です。写真を撮る余裕があったらと、悔やみきれない思いです。

 

 素晴らしい景色を眺めながら、坂道を一気に下ります。海岸近くに辿り着いたら、今度は海沿いの道を南下です。途中、「道の駅こどまり ポントマリ」という施設があり、そこでしばらく休憩です。

 道の駅は、”折腰内(おりこしない)交流施設”との別名もあり、近くには、中泊町が整備したキャンプ場や海水浴場などもあるようです。真夏には、たくさんの人達で賑わうところなのでしょう。

 

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※道の駅こどまり。

 

 小泊

 中泊町の中心は、おそらく、小泊というところだと思います。道の駅を越えてから、一旦、山道になった後、小泊の集落に入るのです。道は、集落内で左に折れて、再びしばらく、山間を走ります。

 この小泊は、『津軽』の最後の場面に登場します。『津軽』は、太宰治が、故郷の津軽に帰省して、旧交を温めながら、各地を巡る様子を描いた名作です。その締めくくりの訪問地が、小泊というわけです。

 

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※小泊の集落を抜けて、海に出た辺り。遠くには、岩木山が眺望できます。

 

 たけ

 太宰治が、小泊を訪ねた理由は、彼の幼少の頃の育ての親、”越野たけ”という人に会うためです。”たけ”は、太宰家の女中のひとり、太宰治の世話をする、ある種、彼の担当を勤めた人でした。

 『思ひ出』には、その前半に、”たけ”の話が出てきます。「六つ七つになると思ひ出もはっきりしている。わたしがたけといふ女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。」「たけは又、私に道徳を教へた。」

 太宰治の両親は資産家で、父親は国会議員にもなった人。子供の頃の太宰の傍には、両親の姿はありません。おそらくは、東京に暮らしていて、子供たちは、親戚や使用人が面倒を見ていた様子です。

 そのために、太宰は”たけ”を非常に慕い、母性を抱いた人だったのだと思います。

 『思ひ出』は、太宰治の切ない別れの記憶を、次のように綴ります。

 

 「たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追ふだらうという懸念からか、私には何も言はずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。」

 

 母親の役目を務めた、”たけ”に再び会うことが、太宰治が帰省した、最大の理由だったのかも知れません。太宰は、小泊で、”たけ”とその子どもに、何とか会うことができました。幼い時に慕った人との再会は、太宰にとって恥じらいとも言えるような、愛を感じる時だったのだと思います。

 

出会い旅のスケッチ10・・・津軽半島(2)

 竜飛岬

 

 津軽の旅は、半島の北の端、竜飛岬へと向かいます。本州の最北端は、下北の大間崎。竜飛岬は、位置的には、下北より南にありますが、北の地の裏寂しい風景が、脳裏に浮かんでしまうのは、津軽という、地名の響きがなせる技かも知れません。

 津軽とは、アイヌ語が語源だという説がある他に、津加留(つかる)と読んで、都から遠く離れたところ、という和語の説など、色々とその謂れはあるようです。ことほどさように、この半島は、神秘的な響きなどを感じてしまうところです。

 さらに、「津軽半島冬景色」で歌われる、侘しくて悲しいメロディーは、日本人の津軽に対する感覚を、決定づけているように思います。

 ただ、この土地は、かつては自然の食糧がいたって豊富で、北海道やその他に暮らす人にとっては、ある種、憧れの場所だったとも言われています。近年、発掘が進んだ縄文遺跡は、そのことの証なのかも知れません。

 司馬遼太郎は、津軽を含む北の地を「北のまほろば」と形容し、津軽の歴史や文明について、熱く語りかけているのです(『街道をゆく41』)。

 最北の、厳しい自然に、耐え忍ばなければならない土地が、住み良くて、秀でた場所であったとは、驚きという他ありません。複雑な思いを抱きながら、北の岬を目指します。

 

 

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義経寺から竜飛岬方面を望みます。

 

 義経

 義経寺(ぎけいじ)は、三厩(みんまや)の海岸線から、少し高台に上った位置にあり、山の斜面に境内が広がります。『津軽』では、太宰治は、旧友のN君と義経寺を訪ねます。

 義経寺は、本堂の横に広い駐車場を有しています。崖下の国道沿いにも駐車場はあるようで、時によっては、たくさんの人達が訪れてくるのでしょう。

 

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義経寺仁王門。”龍馬山”と記されています。

 

 三厩伝説

 ここで、少しだけ、源義経の伝説に、触れなければなりません。 

 『津軽』では、『東遊記』という書物を引用し、次のように記しています。

 

 「むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ちかはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。」

 

 北海道の松前に渡った義経が、後に、大陸に足を伸ばして、ジンギスハンになったとの言い伝えを耳にしたことはありますが、話の飛躍に滑稽さすら覚えます。

 太宰治は、この伝説を羞恥の思いで受け止めて、早々に、義経寺を後にすることになるのです。

 この後に、『津軽』では、三厩の謂れについて触れられた箇所がありますが、そこは、司馬遼太郎の『街道をゆく』を、少し引用させていただきます。

 

 「国道の周辺が公園ふううに整えられて、すぐそばの山ぎわに、「厩石公園(まやいしこうえん) 三厩村」と掲示板があげられている。かつては海中にあって浸食を受けた大きな岩礁が、公園の主役である。岩礁のかたちは奇怪で、三つの洞がうちぬかれていて、柱もある。・・・それが”厩石”である。」

 

 「義経らは、ここから津軽海峡を渡ろうとしたが、海が荒れて術がなく、やむなく念持する観音に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。目がさめて、右の厩石の洞をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って海峡を渡ったという。」

 

 つまり、義経寺の崖下にある三つの洞(ほこら)に、義経が海峡を渡るための馬がつながれていた、との伝説が、3つの厩(うまや)→三厩、になったというのです。

 

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義経寺の円空仏

 

 義経渡海

 岩手県の平泉、高館(たかだち)の丘において、最期を迎えたはずの義経が、弁慶とともに生き延びて、三厩にやってきたとは、想像をはるかに超えた伝説です。

 それでも、まことしやかにその伝説が地名となり、義経の名前を冠した寺院もあることに、何となく、ロマンを感じてしまいます。

 

 竜飛岬へ

 私たちは、義経寺での参拝を終え、一路竜飛岬に向かいます。

 岬までの道筋は、海岸伝いの国道と、山際を進む県道がありますが、国道への下り口を間違えて、結局最後まで、県道伝いにドライブをすることになりました。この県道は、”あじさいロード”と名付けられ、時期によっては、見事なアジサイの花が見られるところです。

 

 竜飛岬

 義経寺から、10kmほど進んだ所で、国道が左右に延びるT字路を迎えます。そこを右に折れ、坂道を下った先に、台地状の広い空間が現れました。

 この辺りが竜飛岬。灯台の姿も見えました。

 

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※石の碑は、「津軽海峡冬景色」の歌詞の碑。左上方に灯台が見えます。

 歌碑

 竜飛岬の台地には、広い駐車場が設けられ、その右前方の崖地のところに、「津軽海峡冬景色」の歌詞が刻まれた石の碑がありました。

 この石碑、観光地でよく見かけるように、前面にあるボタンを押すと、石川さゆりの歌声が鳴り響きます。本場で聞くこの歌は、いつまでも聞いていたくなるように、吹く風が、歌の音を弱めては増幅させて、哀愁を誘います。愛おしい響きを奏でるこの歌は、訪れた人々の心を惹きつけて止みません。

 

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※「津軽海峡冬景色」の歌碑。

 

 歌碑が置かれた岬の奥に少し進むと、下には、龍飛の港が見えました。遠方を望んでみると、かすかに陸地もあるようです。この岬の先は、北海道。この距離ならば、古くからの人々の往来も、不可能ではなかったと思います。

 

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※遠方には北海道が望めます。

 

 太宰治が見た竜飛

 私たちは、哀愁の地の雰囲気に、離れ難い思いを抱きつつ、岬上の高台から、急な斜面を車で下りて、太宰治が訪れた、竜飛の村へと向かいます。

 

出会い旅のスケッチ9・・・津軽半島(1)

 津軽

 

 久しぶりの「出会い旅」シリーズです。前回は、アメリカ・カリフォルニア州のベイエリアオークランドが輩出した小説家、ジャックロンドンに出会う旅。それから2年、今回は一転して、青森の津軽へと向かいます。津軽と言えば、太宰治を抜きにしては語れません。小説『津軽』のゆかりの地を訪れながら、本州の最果ての地を巡ります。

 

 

 青森空港

 青森への旅が実現したのは、幾つかの条件が重なった結果です。元々、私が大学1年生であった時、津軽と下北を訪れて、深い感銘を受けた土地。いつかまた、行ってみたいと、密かに思いを抱いていたのが、その一つの理由です。そしてまた、久々に、太宰治の『思ひ出』や、『津軽』などの作品を読んだのも、北の地に憧れる契機になりました。

 それにも増して、この旅の実現を決定づけた理由としては、息子からのマイレージの提供です。期限を迎えるマイレージ。この動きづらいご時世で、無駄にしない方法は、高齢者である私たちの活用が、不可欠と言う結論になったのです。

 何とも、自分勝手な言い訳ですが、できるだけ、人ごみを避けた半島巡りは、まだ安全と高をくくって、伊丹から、青森へと飛び立つことになりました。

 夫婦で向かった北の国。青森の空港に降り立ったのは、2021年の秋口のことでした。

 

 

 津軽半島

 青森空港から先の行程は、レンタカーの利用です。空港がある、青森市の南に広がる高原を、北に向かって一気に下り、青森市に近づきます。

 青森市の郊外は、意外にも、整然とした稲作の農地が連なります。青森と言えば、リンゴなどの果実のことを思い浮かべてしまうのですが、津軽の平地は、穀倉地帯とも言えるほど、見事な農地が広がります。

 

 途中、直前に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、世界遺産に登録された史跡の一つ、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)の傍を通って、国道280号線へと向かいます。

 

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※国道280号線沿線、蓬田辺り。

 村の駅
 国道は、蓬田蟹田よもぎだかにた)バイパスと呼ばれる道で、交通量が少なくて、走りやすい道路です。この道は、津軽半島東海岸近くを通り、陸奥湾伝いを北上します。

 途中、蓬田(よもぎだ)という町の近くには、「村の駅 よもっと」と名付けられた、小さなドライブインがありました。私たちは、そこで、しばしの間の休憩です。

 

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※村の駅、よもっと。

 小説『津軽

 冒頭でも触れた通り、昨年の初夏の頃、久し振りに、太宰治の小説『津軽』に触れました。実は、その直前に、『思ひ出』という作品を読んだことが『津軽』につながることになったのです。

 この2つの作品は、太宰治の若い頃の生活や、津軽への思い入れが、生々しく描かれていて、津軽への旅心をそそる名作です。

 

 今、走っている国道辺りも、太宰治はバスに乗り、蟹田へ、龍飛岬へと向かうのです。『津軽』では、

 

 「津軽半島東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北上すると、後潟、蓬田、蟹田、平舘、一本木、今別、等の町村を通過し、義経伝説で名高い三厩(みんまや)に到着する。」

 

 と、説明をしています。勿論、当時の道は、バイパスより海に近い旧道です。時折、潮の香りも感じながらの、バスの旅だったことでしょう。

 

 蟹田

 太宰治は、友人と会うために、まず、蟹田に入ります。そこで、友人N君と旧交を温め、数人の人たちと交流のひと時を過ごすのです。

 蟹田は、名前の通り、街中を流れる蟹田川の河口辺りで、よく蟹が取れたそう。地名もそのことに由来しているのかも知れません。『津軽』では、大盛りの蟹の話も出てきます。

 私たちは、太宰治の旅を偲んで、蓬田から蟹田の町に向かいます。

 蟹田では、バイパスを右に折れ、町の中に入ります。そこから少し進んだ左手に、JR津軽線蟹田駅が見えました。駅を過ぎ、踏切をこえたところが旧国道。道沿いからは、何となく寂し気な、陸奥湾の風景を見ることができました。

 対岸には、下北半島の姿も望めます。津軽と下北は、陸路では、随分と遠回りになりますが、船で渡れば、それほどでもないのでしょう。今も、フェリーが航行している様子です。

 

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蟹田の海岸。

 

 静かに民家が並ぶ、旧国道を経由して、今度は、今別という町に向かうため、県道に入ります。県道は、今別まで、ショートカットをするような、斜めの道筋を辿ります。

 国道は、真っすぐに北に延び、半島の右上の海岸伝いを回り込むようにして、今別へと向かうのです。

 

 今別から三厩

 蟹田から今別までは、20Kmほど離れています。県道は、海岸から離れた場所を通るため、途中は、山に囲まれた道筋を、蛇行を繰り返して進みます。

 何度か、北海道新幹線の高架下を潜り抜けると、右側に、”奥津軽いまべつ”と表示された、新幹線駅が見えました。

 この土地の方に対しては、大変失礼ではありますが、どうしてこのようなところに、新幹線駅が設けられることになったのか、不思議な気がしてなりません。

 やがて県道は、岬を遠回りしてきた、国道280号線と出会います。私たちは、国道伝いに、今別の町を遠巻きに通り過ぎ、次の町、三厩(みんまや)を目指します。

 

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三厩港の様子。遠方の町が今別。

 義経

 三厩は、そこだけ、少し平地が開けたようなところです。そこそこの数の民家が並び、お店なども見かけます。

 この町は、先程の蟹田とともに、今は外ヶ浜町になるようです。蟹田三厩の間には、今別町があるために、三厩から竜飛岬にかけた地域は、飛び地のような状態です。私たちは、町の途中で国道を左にそれて、山際の道へと向かいます。

 この道を選んだ理由は、他でもなく、義経寺(ぎけいじ)に行くためです。源義経の伝説が残る三厩の地。義経を偲んで、彼の人の名前をいただく寺院の姿を、一目見ておきたいとの思いに駆られた訪問です。

  

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義経寺本堂。

歩き旅のスケッチ[熊野古道]11・・・熊野三山(後編)

 3大社と2寺

 

 「歩き旅のスケッチ[熊野古道]」の最終回は、熊野三山の最後の聖地、熊野那智大社です。崖地から、糸を引いたような那智の滝を崇める霊地は、壮大な自然への畏敬の念を抱き続けた、先人達の信仰の深さを伝えています。

 そして、熊野那智大社の隣には、観音様の霊場である、西国三十三所の1番札所、青岸渡寺が控えています。熊野那智大社と一体化した寺院の姿は、神仏習合の典型です。

 自然の神と仏の世界。どこにその違いがあるのかは、私などには理解できない事柄ですが、何れにしても、人の力が及ばない、不思議な何かを感じるところなのだと思います。

 「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された世界遺産。その構成資産の枠組みに、熊野三山が位置づけられて、そこに、関連する2つの寺院が加わります。その一つは青岸渡寺で、もう一つが補陀洛山寺。2つの寺院も訪れて、熊野の地の、神聖な霊場を巡る旅を終わります。

 

 

 熊野那智大社

 熊野三山の最後の聖地は、那智の滝で有名な、熊野那智大社です。新宮から勝浦の辺りに南下して、そこから一気に山の中に入ります。

 那智の滝は、紀州の一大観光地。道は良く整備され、山道を快適に進みます。

 やがて、滝に向かう拠点の場所に着きますが、那智大社へは、さらに車で上方に行かなければなりません。土産物店などが並ぶ道を通り過ぎ、那智山観光センターの駐車場に向かいます。

 観光センターの駐車場に車を停めると、少し後戻りした左手が、那智大社への入口です。私たちは、ここから、お店が並ぶ石段を一段一段踏みしめて、三か所目の大社を目指します。

 

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熊野那智大社への導入口。

 

 石段を上り進むと、途中、分かれ道のある踊り場に到達します。その踊り場には、右西国第一番札所と刻まれた石標が。ここを右に向かって行くと、西国三十三所の一番札所、青岸渡寺(せいがんとじ)があるようです。

 私たちは、左方向の石段へ。そこには、鮮やかな朱塗りの鳥居が、熊野那智大社への参詣者を誘います。

 石段を上って鳥居をくぐると、さらに右側に石段が続きます。結構な段数が待ち構える参道は、修行の道でもあるのでしょう。

 

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※左、石段の踊り場。手前右方向が青岸渡寺への道。真っ直ぐが熊野那智大社への階段。右、最後の直線階段。

 

 熊野那智大社

 最後の、直線状の石段を上ったところは、熊野那智大社の境内です。再び朱塗りの鳥居をくぐった先に、見事な本殿が現れて、神聖な境内が広がります。

 

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熊野那智大社本殿と境内。

 

 熊野那智大社は、解説を読むと、那智大滝に対する原始の自然崇拝が成り立ちである、とされています。ほら貝を持ち、独特の白装束で山中を駆け巡る修験道の人たちが、那智大社や滝とともに映像に映る姿は、那智を象徴する光景です。

 熊野那智大社は、このように、修験道の聖地でもあるのです。

 

 青岸渡寺

 本殿に参拝した後、右方向に向かいます。そこには、大楠が勇壮に枝葉を茂らせて、神殿の威風を高めています。

 この楠から左に進むと、その奥に、寺院のような建物が見えました。よく見ると、その建物が、青岸渡寺。観音霊場として多くの人々が参拝する、西国三十三所の1番目の札所です。*1

 石段の踊り場で、道を分けた参道は、境内で再びひとつにつながっていたのです。

 

 冒頭で触れたように、青岸渡寺世界遺産の構成資産のひとつです。観音様を本尊とする、天台宗の寺院ではありますが、熊野那智大社と背を合わせるように佇む姿は、微笑ましくも感じます。

 

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青岸渡寺の本堂。

 

 那智の滝

 青岸渡寺の境内を横切ると、その突き当りが展望所のようになっていて、那智の滝を正面に捉えることができました。

 

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青岸渡寺の境内から見た那智の滝

 

 観光で那智の滝を訪れる場合には、大社に向かう坂道の手前にある、飛龍神社から入るのが一般的。その場合は、流下する滝を見上げる位置になり、それなりに絶景です。

 それでも、那智大社青岸渡寺から眺められる滝の姿も素晴らしく、是非とも訪れて頂きたいところです。

 

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青岸渡寺境内から見た、朱塗りの三重塔と那智の滝

 

 補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

 熊野那智大社を後にして、海に向かって坂道を下ります。海岸近くに拓けた町は、勝浦町の浜ノ宮。JR紀勢線那智駅や道の駅などがあり、観光の中継地のようなところです。

 那智の山から県道を伝って一本道。最後に、那智勝浦新宮道路の高架橋を潜り抜け、その先で左に折れると、すぐそこに、補陀洛山寺はありました。

 

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※補陀洛山寺の本堂。

 

 補陀落渡海

 上の写真の石標にもあるように、この寺も、世界遺産の構成資産のひとつです。”補陀洛渡海発祥の地”とも刻まれている通り、その昔、南方の補陀落浄土(この場合は”落”の字を充てるようです。)を目指す人たちが、船を出帆させたところです。

 補陀落浄土を信じるかどうかは別として、実際に、命をかけてその浄土を目指すとは、想像もできない世界です。信仰の極みと言う他、当てはまる言葉はありません。

 普通では、あり得ない行為とは言うものの、まことしやかに実行された補陀落渡海。私自身の理解からは、余りにもかけ離れていて、どうしても、実感することはできません。

 

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※境内にあった、復元された渡海船。

 私が補陀洛山寺の存在を知ったのは、たまたま、補陀落渡海を扱った、内田康夫のミステリー、「熊野古道殺人事件」を読んだ時。率直に、考えられないお話で、ミステリーの作り話に違いないと思い込んだものでした。

 それでも、何となく調べたところ、実際に、補陀落渡海が行われたことを知るようになったのです。

 

 遠い昔の話であるとは言うものの、いかにも残酷な香りを感じます。その、渡海の人々を送り出した補陀洛山寺。今も世界遺産として、熊野の海近くの場所に、境内を構えているのです。

 

 境内の片隅に置かれていた、渡海船を眺めていた時、住職さんから声を掛けていただいて、本堂へと案内頂くことができました。千手観音様を本尊とする補陀洛山寺。観音信仰は、多くの人の心の世界を、安寧の地へと誘ってくれているのでしょう。

 

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那智参詣曼荼羅

 

 本堂でお参りし、振り返ってみたところ、そっこには、立派な絵図がありました。許しを得て、写真に納めることができたのですが、この絵図はレプリカとはいうものの、那智地域の霊場の参詣の様子が描かれていて、大変貴重なもののように感じます。

 上部には、那智の滝熊野那智大社が描かれて、一番下は、補陀洛山寺。鳥居の先には、海に船が浮かべられ、補陀落の地を目指す様子が描かれているのです。

 

 

 熊野古道の旅の終わり

 補陀落の浄土を目指す人々の思いを偲び、今回の、熊野古道を辿る旅を終わります。中辺路の滝尻王子を起点として、歩き旅と、車での移動を繰り返した、熊野古道と3大社2寺を巡る旅。信仰の聖地として、多くの人の心を惹きつけてきた熊野の自然は、今もなお、不思議な魅力を放っています。

 次回からは、一気に北へと足を向け、津軽、下北の旅を紹介します。

 

*1:いずれ、「巡り旅のスケッチ」の第2弾として、西国三十三所をお届けする予定です。現時点で、私たちは、25か所ほどの寺院を巡っている途中であり、今年の夏には、巡り終えることになるでしょう。