旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)17・・・伊予路(62番→61番)

 特色ある2つの霊場

 

 西条市にある、次の2か所の霊場は、ある面で特色がある札所です。

 62番宝寿寺は、数年前、霊場会との関係が正常ではなかった時があり、巡拝者の戸惑いを誘うことになりました。もう一つの、61番香園寺は、その建物が特徴的。一見、霊場とは思えないお堂の姿は、ある種の不思議さを感じます。

 

 

 62番宝寿寺

 吉祥寺から宝寿寺(ほうじゅじ)へは、ものの5分の道のりです。片側1車線の国道11号を西に向かってしばらく走ると、間もなく札所を示す標識が現れます。そこを右折して、すぐ右手が駐車場。そして、駐車場の向かい側が宝寿寺です。

 この札所の近くには、JR予讃線の軌道があって、伊予小松駅はすぐそこです。

 

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 宝寿寺の境内。

 

 宝寿寺

 宝寿寺の入口には、山門や仁王門はありません。以前、「霊場には、ほぼ例外なく仁王門があるものです」と記した記憶がありますが、宝寿寺は、例外です。

 代わって、この寺院の境内への入口には、”一国一宮”と印された大きな標石がありました。宝寿寺は、伊予の国の一之宮に設けられた仏教施設が起源ということで、その名残が標石です。

 

 境内は、四国霊場の中では、最も狭い部類に属します。正面左手すぐのところに納経所があり、右手に本堂と大師堂が並びます。奥には、旧本堂があるようですが、概ね境内の建物はその程度。

 宝寿寺は、一時期は廃寺になるなど、様々な変遷を辿ってきたようで、苦難が偲ばれる古刹です。

 

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※現在の本堂。

 

 近年の苦難

 数年前、私たちが宝寿寺を訪れようとしていた時、61番香園寺のところで、「宝寿寺の参拝と納経は、香園寺第二駐車場へ」という案内を受けました。

 それまでに、僅かながら情報を得ていたために、驚きはしませんでしたが、少しの戸惑いはありました。

 

 詳しくは分かりませんが、当時、宝寿寺四国八十八か所霊場会との関係がギクシャクとしていたようで、霊場会は、臨時的に札所の位置を移されたということです。

 それにしても、寺院のないところでのお参りはどうするものかということと、折角の巡礼で、1か寺を飛ばしてしまう罪悪感を密かに抱いたものでした。

 当時の様子は、下の写真にもあるように、香園寺の駐車場の一角にプレハブ小屋が建っていて、そこに仮の本尊が安置され、お参りするという仕組みです。納経も、そのプレハブで対応いただき、かたち上は、巡拝が完結です。

 ただ、宝寿寺そのものに参拝しないということに後ろ髪が引かれるようで、当時私たちは、わざわざ宝寿寺前に足を運び、標石の前から、手を合わさせていただいた次第です。

 

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※左、数年前の宝寿寺の仮建物。茶色の屋根の下で参拝しました。右、現在の状況。駐車場のアスファルトが一部剥がれていて、プレハブの基礎の跡がうかがえます。 



 この宝寿寺も、2019年12月から、通常参拝を再開されたということで、今回、私たちは、ようやく本物のお寺で巡拝を果たすことができました。

 

 61番香園寺

 宝寿寺から香園寺(こうおんじ)へは、5分程度で向かえます。再び国道11号を西に進んで、直ぐのところの交差点を左折です。この交差点の一角には、三嶋神社の立派な鳥居が構えていて、少し厳かな風景です。

 その後、道路を右折をして、さらに西を目指して行くと、その突き当りが香園寺。寺院の敷地の左手前に、大きな駐車場がありました。

 

 香園寺

 香園寺の境内は、広場がある公園のようなところです。この霊場の本堂は、文化ホールのような建物の中にあるために、初めて訪れた時は不思議な気分になりました。

 下の写真の、石段のさらに先に見える建物がそれで、1階正面には、賽銭箱が置かれていて、そこでもお参りができたと思います。ただ、本来の参拝は、向かって右側面の階段を上がるようにとの案内があり、それに従い、2階へと上がります。

 

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※境内の様子。

 

 2階には、それこそ、ホールに入る入口があり、左右には、下足箱が並びます。

 ここで、靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて奥へと進むと、そこはまさしくお堂の中。左手に、ずらりと椅子が並び、右手に神々しい本尊が耀きます。黄金の大日如来は、まさしく密教の象徴です。

 椅子の数は、数百もあるのでしょうか。何せ、その雰囲気は圧巻です。

 私たちは、本堂正面で参拝し、その後、本尊の右におられる、大師像の前に移ります。ここでは、ひとつのお堂の空間に、本堂と大師堂が共存しています。

 

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※左、本堂の建物。この建物の右側面から2階に上がります。右、2階の入口。

 

 香園寺の納経所は、境内の左手です。プレハブのような事務所があって、そこで御朱印を頂きます。

 

 そういえば、香園寺もまた、山門や仁王門はありません。建物すべてが一新された近代的な霊場も、今後の末永い信仰を支えていくには、きっと必要なことでしょう。

 

 次に控える札所は、60番横峰寺四国八十八か所の中でも有数の、険しい山岳地帯にある霊場です。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)16・・・伊予路(64番→63番)

 西条市

 

 瀬戸内海の中央部は、二つの本四架橋に挟まれて、海が広がるところです。四国の地形は、この区間が南にくびれたような形状で、そのくびれた海岸沿いに、西から、四国中央、新居浜、西条の各市が並びます。

 前回紹介した、65番三角寺四国中央市にある唯一の札所です。そして、次に向かうのが、西条市。ここには、5か寺が集中します。

 

 64番前神寺

 三角寺を出た後は、松山自動車道を利用して、一気に西条市方面に向かいます。国道11号も、自動車専用道路とほぼ並行して走ってはいるものの、効率を考えたら、俄然高速が有利です。いよ西条インターチェンジで高速を降りれば、すぐに国道11号につながります。

 次の札所の前神寺(まえがみじ)から、61番香園寺(こうおんじ)までの4か寺は、国道11号の沿線付近に位置していて、テンポよく回れるところです

 

 前神寺への目印は、国道脇左手に見える石鎚神社の大鳥居。ここをくぐって、さらに左折した奥に前神寺の駐車場がありました。

 

 前神寺

 駐車場から100メートルほど、小さな石像を眺めながら林の中の小道を進むと、左手にコンクリート造りの立派な庫裏が見えました。

 本堂は、そこから右手奥。まさに、四国山地の山裾の際に境内が続いているようです。木々が覆う参道を進んで行くと、一段高くなったところが少し開けて、正面に本堂が見えました。

 本堂の屋根は、唐破風と千鳥破風が縦に並んだ形をなして、荘厳です。また、お堂の左右には、鳥が翼を広げたように、美しい屋根を配した回廊がありました。一見、神社の拝殿のようにも見える本堂の建築様式は、前神寺という、”神”が付いた寺院の名とつながりがあるのかどうか、興味深いところです。

 

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※本堂。手前右手の鳥居が、石鉄権現とつながっているようです。

 前神寺の大師堂は、本堂を引き返し、庫裏がある入口のすぐ傍です。

 この寺は、西日本の最高峰といわれる、石鎚山の山頂にある「石鉄(鎚?)権現」との関係もあるようです。”前神”という名称も、ここから由来しているのかも知れません。

 

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※左、正面奥が本堂。右、大師堂。

 

 63番吉祥寺へ

 前神寺を出て、再び国道11号に戻ります。2Kmほど車を進めると、吉祥寺(きちじょうじ)を示す標識が現れます。吉祥寺は、標識どおり右折して、すぐのところにあるために、迷うことはありません。ただ、専用駐車場が少し離れているために、JA西条氷見支店を目指す方がよりスムーズに駐車場に入れます。

 駐車場からは、JA前を通り過ぎ、左に折れて、清らかな水が流れる水路に沿った細い道路を進みます。白壁と水路の景色が奥ゆかしくて、心が落ち着くところです。

 

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※吉祥寺の山門。象の石像は珍しいのではないでしょうか。

 吉祥寺

 白壁が途切れたところが吉祥寺の入口です。水路に架かる石橋の向こうには、左右に置かれた一対の小さな象の石像がありました。石像の間をすり抜けるとその向こうが山門です。

 山門をくぐると、小じんまりとした境内に入ります。砕石が敷かれた境内の、正面のやや左手奥が本堂で、その左側に大師堂が続きます。

 

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※本堂と、左にわずかに見える大師堂。

 

 吉祥天像

 本堂と大師堂での参拝を終え、納経所に向かう途中に、弘法大師像と並ぶ吉祥天(きっしょうてん、または、きちじょうてん)の石像がありました。

 吉祥寺の名称と符合する吉祥天。寺院の名とつながりがあるのでしょう。

 そういえば、この古刹の本尊は、四国八十八か所霊場で唯一の毘沙門天ということです。吉祥天は毘沙門天の妃とも言われていて、これらは、古代インドの思想が起源とされる神仏です。

 四国巡拝を続けていると、時々、毘沙門天の像や名前が目に止まります。詳しくは分かりませんが、弘法大師にとっては、毘沙門天への思いは格別なのかも知れません。

 

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※境内の弘法大師像と吉祥天像。

 密教の起源

 そもそも密教の起源は、古代インドにあるようです。かつて、中央アジアで勢力を増したアーリア人がインドに入り、その中で、様々な魔術や呪術を使って思索の世界を極める人たちが現れます。その人々は、聖者などと崇められ、崇拝の対象へと進化することに。

 そして、思索の方向は、抽象的・形而上的に発展し、宇宙の真理を追究する方向へと昇華していきます。

 仏教自体も、このような流れの中で派生してくるようですが、密教とは、思考対象が異なります。

 司馬遼太郎の『空海の風景』では、このあたりの相違を、ごく短文で表現された箇所があり、興味深い一文です。

 

 「現生を否定する釈迦の仏教に対し、現生という実在もその諸現象も宇宙の真理のあらわれである、ということを考えた密教の創造者は、宇宙の真理との交信法としての魔術に関心をもった点が、釈迦といちじるしく異なっている。」

 

 このような密教へのアプローチを続けた空海にとって、インドという地は、憧れの国だったことでしょう。彼の地で生み出された神仏を目にするとき、あるいは、自らがインドの地に存在するような高揚感を覚えたのかも知れません。

 吉祥寺の本尊や、吉祥天の石像を思い出すとき、空海のそんな気持ちも、ふと考えてしまいます。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)15・・・伊予路へ(65番三角寺)

 讃岐から伊予へ

 

 讃岐の国の巡拝は、前回で終了です。次は、四国第2の面積を有する伊予の国に入ります。

 愛媛県にある、四国八十八か所霊場の数は26。65番札所から40番札所まで、県内全域に散らばります。4県で最も多い霊場を抱える伊予の国。ここにも、様々な顔を持つ古刹が控えます。

 

 

 伊予の国の霊場

 愛媛県は、瀬戸内海に面した四国の中央部から、豊後水道を隔てて大分県と向かい合う南西部まで、広範囲に広がります。海岸線は、穏やかな平地がつながる瀬戸内海の沿岸も、西に進むに従って、リアス式海岸のような険しい山が迫ります。

 一方の内陸部は、石鎚山や久万高原(くまこうげん)など、深く険しい山地が広がり、車であっても難渋するようなところです。

 このような、伊予の国の巡拝は、街中や郊外の比較的訪れやすい霊場と、奥深い山の中にある、険しい場所の霊場にくっきりと二分されていて、変化に富んだ遍路道が続きます。

 

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愛媛県霊場の様子。

 

 65番三角寺

 讃岐の国の最後の札所雲辺寺から、伊予の国の東の入口、三角寺(さんかくじ)に向かうルートは大きく分けて2通り。その一つは、観音寺市方面に戻りながら国道11号または高松自動車道を利用して川之江に向かうルートです。もう一方は、徳島県方面に向かう山越えの道。峠を越えて、徳島県三好市の池田町で国道192号に入り、川之江へと向かう道筋です。

 私たちは、今回は、時間短縮を優先して、前者の高速ルートで伊予の国に入ります。

 

 三角寺は、今は四国中央市の市域ですが、元は川之江市金田町。松山自動車道の三島川之江インターチェンジを下りて、少し迂回するようにして、南側の山の中へと向かいます。三角寺への細かな道筋は、少々複雑なため、カーナビの過信は禁物です。よくルートを確かめて、道筋を確認することが大事です。

 松山自動車道の下を潜って、山道に入り、蛇行した坂道を一途に上って行くと、やがて右手に駐車場が現れます。

 

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※駐車場から境内へと続く石段。

 三角寺

 駐車場は、料金箱が置いてあり、200円を投入します。駐車場前の民家の玄関にお婆さんがおいでになり、確認をされている様子です。*1

 

 駐車場からすぐのところに、境内へと続く石段が真っ直ぐに延びていて、その上に、仁王門が望めます。黙々と石段を踏みしめて仁王門に近づくと、そこには釣り鐘の姿も見えました。仁王門と鐘楼とが兼用している、珍しい形です。

 

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※仁王門。鐘楼門でもあるのでしょう。

 

 三角寺の境内は、それほど広い敷地ではありません。山の中腹の、少し開けた場所で、周囲は木々が生い茂ります。

 本堂は、境内の左手奥。そして、その右隣りが大師堂という配置です。

 

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※左、境内の様子。右、本堂。 

 

 三角寺縁起

 本堂の右手には、三角寺の縁起が書かれた案内板がありました。これによると、三角寺は、かつて弘法大師が境内に三角形の護摩壇を築かれて、護摩の秘法を執り行われたのがその名の由来ということです。そして、今もその護摩壇の遺跡が、三角の池として残っているということです。

 

 菩提の道場

 四国巡拝は、4県それぞれの霊場を巡り歩く、修行として捉えられています。特に、歩いて八十八か所を辿る場合は、修行以外の何物でもなく、厳しい道のりと苦難の日々が続きます。

 それに反して、私たちは、車での巡拝です。時として観光気分になりがちで、修行の意味をなかなか感じることはできません。

 それでも、本堂の前に立ち、大師堂で弘法大師の姿を見れば、多少なりとも心が洗われる気分です。修業とは言えないまでも、遍路の心構えは大切にしなければなりません。

 

 四国4県をつなぐ巡礼の旅。各県の巡礼をそれぞれ一括りの修行と捉え、県ごとに固有の表現で紹介されたりもしています。伊予の国の場合は、”菩提の道場”。悟りをひらく場所、という意味でしょうか。

 元々、四国巡拝は徳島の阿波の国がスタートです。この阿波の国は”発心の道場”と呼ばれていて、修業を始めるところです。その次が土佐の国。まさに修行を続ける”修行の道場”。そして、伊予の国の”菩提の道場”へとつながります。最後の国が讃岐の国。ここは”涅槃の道場”です。最後に悟りを得て修行を終わると表現されているのだと思います。

 

 閏年には、最後の札所から逆方向に巡拝するとご利益が得られる、という言い伝えは、どのような根拠があるのか分かりませんが、発心し、修行して、菩提の域に達することで、涅槃に至る本来の巡拝とは、趣が異なるような気がします。

 それでも、四国巡拝は、気持ちの問題。弘法大師とともに巡る遍路の旅は、何よりも、それぞれの人の心の中が大切です。

 こんなことこを思いつつ、菩提の境地を求めて伊予の国の霊場を辿ります。

 

*1:お婆さんがおられない時は、帰りに料金を投入した方がよいと思います。今まで記載したことはありませんが、88か所の札所の多くは、駐車場料金がかかります。概ね、200円から500円で、中には、車に貼るステッカーをいただけるところもあります。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)14・・・讃岐路(67番→66番)

 讃岐路の終わり

 

 いよいよ、讃岐路の終盤です。残る2つは、三豊市大興寺と、香川県徳島県の境に位置する雲辺寺

 讃岐の国で、険しい山の中の霊場を幾つか巡ってきましたが、最後に控える雲辺寺は、どことも比較にならない険しさです。讃岐山脈の西のはずれ、深い山並みの頂で遍路の人々を待ち受けます。

 

 

 67番大興寺

 観音寺市の南と東は、讃岐山脈の深い山が壁のように立ちはだかり、人の行く手をはばみます。四国八十八か所の67番目の札所である大興寺(だいこうじ)は、この山脈の裾野にほど近く、小高く残った林のような緑の中に、その姿を隠すように佇みます。

 観音寺からは、南東の方角に進んで、再び三豊市の市域に入ります。走りやすく整備された農道のような道を進んで行くと、大興寺の入口を示す案内板が現れます。指示通り、農地が連なる道を辿ると、右奥の林の中に仁王門と駐車場が見えました。

 大興寺を訪れるときには、必ず、この看板を目印にしなければなりません。カーナビでは、一筋西側の道を指示されるため、大興寺の裏手に回ってしまいます。詳しくは分かりませんが、裏手からは境内へは入れないかも知れません。

 

 大興寺

 大興寺の仁王門は、駐車場のすぐ傍で、清らかに流れる農業用水路に架かる橋の正面です。仁王門周辺は、庭木が美しく整えられて、気品ある景色です。

 仁王門をくぐると、正面に石段がそびえます。林の中に吸い込まれていくように、石段を上って行くと、右手にはクスノキの大木がありました。この地で何百年もの年月を見守ってきたような威風が伝わります。

 

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※左、大興寺の入口と仁王門。右、仁王門をくぐって境内へ。

 

 さらに上に進むと、その先に本堂の大屋根が少しずつ姿を現します。石の階段を上り切ったら、ようやくお堂などが並ぶ境内です。正面奥が本堂で、大師堂は左手にありました。

 この寺院は、かつては真言宗天台宗の道場であったということです。今でいうと、大学のようなところだったのかも知れません。

 空海は、天台密教に対して、元より厳しい評価を下していたために、彼の時代に両密教が共存することはあり得ません。従って、両宗共存の勉学の場となったのは、空海の時代より、随分後のことだったと思います。

 

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※左、本堂。右、本堂から大師堂を望む。

 

 司馬遼太郎の『空海の風景』では、空海天台密教に対する捉え方を、次のように記しています。

 

 「空海からすれば、天台は顕教*1にすぎず、読んであからさまにわかるというものにすぎない。天台は「宇宙や人間はそのような仕組みになっている」という構造をあきらかにするのみで、だから人間はどうすればよいかという肝腎の宗教性において濃厚さに欠けるものがある。」

 

 という具合です。後に、空海最澄は、共に第18次の遣唐使として唐の国へと向かうことになりますが、2人の境遇や唐での行動は随分と異なります。帰国後の密教開祖への動きも同様で、このようなことを考えていると、真言宗天台宗が共存することへの違和感を、なぜか感じてしまいます。

 

 

 66番雲辺寺

  次に向かう雲辺寺は、讃岐路の最後の札所です。大興寺を出て、少し西に戻った後は、南に連なる山並の中に入ります。目指すところは、雲辺寺へとつながるロープウエイの麓駅。急な坂道を上って進むと、山脈の中腹辺りに麓駅がありました。

 雲辺寺へは、山脈の裏側の徳島県から入ることもできますが、随分と遠回りするうえに、山の中の細く険しい道路を辿らなければなりません。以前、ここを訪れた時は、この山道のドライブに苦戦したものです。

 時間や安全のことを思うと、ロープウエイの利用が第一です。*2

 

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※ロープウエイの麓駅。


 山頂へ

 ロープウエイの乗車時間は約10分。見る見る高度を上げて、一気に山頂付近に到着です。下を眺めると、瀬戸内海や観音寺市三豊市の平地の景色が鮮やかです。

 

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※ロープウエイからの景色。

 

 山頂

 山頂に到着すると、そこは、公園のような光景です。少し右の方向を見てみると、スキー場もありました。

 園路を少し進んで行くと、徳島県香川県の県境を示す道路上のモニュメントがありました。雲辺寺は、ここから左。讃岐路の最後の霊場でありながら、実際は徳島県の領域です。

 

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※ロープウエイ駅を出て、園路を進みます。

 

 雲辺寺

 徳島県側に続く坂道を下っていくと、奇妙な石像が無数に並び、異様な感覚を覚えます。坂を下ったところが仁王門。本来はこの門をくぐって境内へと進むのですが、本堂は、仁王門の前を通り過ぎ、わずかに右に向かったところ。

 順路に従い、本堂へと向かいます。

 

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※左、境内への坂道。右、仁王門。

 

 本堂は、小さな鉄筋の建物です。新しく建立された様子の建物は、歴史の重みはないものの、これからも、霊場の存在を伝えていくという意気込みが伝わります。

 大師堂は、本堂から少し右に迂回した場所にありました。帰りは、石の階段を下り、先ほどの仁王門から出ていきます。

 

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※本堂。

 

 私たちは、ロープウエイを利用して、険しい山の頂にある霊場を参拝することができますが、ここを歩くと、どれぐらいの時間がかかるのか。気が遠くなるような山道です。



*1:Wikipediaによると、顕教(けんきょう)とは、「仏教の中で、秘密にせず、公然に(明らかに)説かれた教えのこと。」つまり、簡単に言えば、経典を読んで理解するものが顕教で、宇宙の原理を追求し人間の真理を求めるものが密教ということでしょうか。

*2:ロープウエイの料金は、往復1人2,200円です。かんぽの宿のカードがあれば、割引料金にしてくれます。出発時刻は、00分20分40分と20分置きとなっています。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)13・・・讃岐路(70番→68番)

 三豊市から観音寺市

 

 三豊市は、平成の合併で新たに市制がしかれたところです。北西は、瀬戸内海に面しながらも、険しい山が海岸に迫り平地はそれほどありません。また、南東は、讃岐山脈の西の端。深い山が連なります。

 この双方の山の合間に、盆地のようにのどかに広がる空間と、香川県の西の端、観音寺市に続く平野部に町や集落が散らばります。

 観音寺市は、香川県の最西端。文字通り、観音寺の門前町として発展した様子です。財田川の左岸には、門前の賑わいを彷彿とさせる町並みもあり、観音寺はこの街の誇りなのだと感じます。

 

 

 70番本山寺

 霊験あらたかな弥谷寺を後にして、国道11号線を観音寺方面に進みます。20分ほど運転すると、次第に前方の景色が開けてきて、財田川の辺りで右折です。

 本山寺(もとやまじ)はその先すぐで、川の右岸に貼り付くように駐車場がありました。

 

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※駐車場から仁王門と境内を望みます。

 

 本山寺

 本山寺の境内は、駐車場から細い舗装道路を挟んだ向かい側。道路に面して常夜灯と仁王門がありました。

 仁王門をくぐって進むと、参道が真っ直ぐに延びていて、突き当りが本堂です。この本堂は、元々、弘法大師が一夜にして築いたと寺伝では伝えられているようですが、現存の建物は、鎌倉期のもの。それでも、国宝に指定されているということです。

 大師堂は、参道途中の右手奥。また、本堂の左側には、真新しい五重の塔がそびえます。

 

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※左、仁王門をくぐった辺りから見る本堂。右、本堂と五重の塔。

 

 この五重の塔。私たちが数年前に訪れた時はまさに大修理のまっただ中。今回、新しくなった塔の姿を見上げると、凛とした姿に感動です。

 本山寺の納経所は、本堂の裏手です。そこには、客殿などの建物が連なっていて、霊場の奥ゆかしさを感じます。

 

 69番観音寺・68番神恵院へ

 本山寺を出た後は、すぐに観音寺市に入ります。ほどなく、市の中心街が見えてきて、右方向に流れる財田川を渡って進むと、観音寺の駐車場に行き着きます。観音寺(かんのんじ)は、神恵院(じんねいん)と共通の境内で、一か所で2つの札所を制覇できる唯一の霊場です。

 観音寺と神恵院は、有名な琴弾公園の小高い山の裏手にあって、”寛永通宝”の砂絵で知られる有明浜の真裏の位置にあたります。

 

 観音寺と神恵院

 駐車場から境内に向かうと、すぐのところに仁王門。そして、その先に石の階段が続きます。

 

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※仁王門。

 

 仁王門の柱には、向かって右手に「四国六十ハ番・六十九番霊場」と、そして、左手には「観音寺 神恵院」と記されていて、確かに2つの霊場が共存している証がありました。(順番で行くと、69番目が観音寺で68番目が神恵院です。仁王門の表記は、なぜか札所番号と霊場名の記載順番が交錯しています。)

 石段は、真っ直ぐに延びていて、その先が境内です。丁度山の中腹で、一段開けたところです。

 

 観音寺

 境内の開けた場所に辿り着くと、横長の幅広い空間が開けます。観音寺は右手側、そして、神恵院は左です。

 先ずは、69番札所である右手の観音寺へと向かいます。観音寺の本堂は、石段を上がれば、右手奥の正面です。年代を重ねた朱塗りを残すお堂の形は珍しく、印象に残ります。元々は、神恵院霊場であったところに、聖観世音菩薩を祀るこの観音寺が加えられたとのことですが、詳しくは分かりません。

 

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※観音寺の本堂。


 この本堂の手前の左右には、幾つかのお堂などもありました。ただ、どういう訳か、大師堂左側。神恵院の本堂に上がる階段のすぐ側です。

 観音寺の大師堂も朱塗りが目立つ建物で、寺院とは少し趣が異なります。

 

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※観音寺の大師堂。

 

 神恵院

 観音寺の大師堂のすぐ左手に、さらに上へと延びる階段がありました。その階段の向こうには、鉄筋コンクリートの大きな壁が景観を遮ります。

 僅かに空いた空間に入っていくと、さらに少しだけ階段が続いていて、その先が神恵院の本堂です。鉄筋コンクリート造りの本堂は、新しく建立された建物です。山を背景にして近代的な寺院が迫ります。

 

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※左、神恵院へのアクセス。右、本堂。

 

 神恵院は、琴弾の八幡宮とも呼ばれているとのことですが、どうして八幡さんと寺院とが同居しているのか不思議です。明治のころの神仏分離などが影響しているとは思うものの、かつては、神と仏は、それほど相反する存在ではなかったのかも知れません。

 

 神恵院の大師堂は、観音寺の大師堂とは反対側。神恵院の本堂下の左手です。この大師堂こそ、標準的なお堂の姿。本堂2か所と大師堂2か所を参拝し、納経所へと向かいます。

 2つの札所が共存するこの霊場は、納経所も1か所で済ませます。

 

 琴弾公園

 2つの霊場を後にして、せっかくの機会ということで、銭形の砂絵が見える展望台に寄り道です。一方通行の狭い坂道を上って行くと、ほどなく見晴らしの良い一角に行き着きます。そこからは、美しい有明浜の景観が広がって、”寛永通宝”の砂の造形を確認することができました。
 瀬戸内の穏やかな海と砂浜が広がる光景は、何とも落ち着く景色です。

 

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※琴弾山の展望所からの風景。丸くくりぬかれたところが銭形の砂絵になっています。

 次の札所は67番大興寺。再び三豊市領域に戻ります。讃岐路の霊場の残りは2つ。弘法大師出生地の札所巡りは大詰めを迎えます。

 

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)12・・・讃岐路(72番→71番)

 曼荼羅の世界

 

 曼荼羅(まんだら)は、密教との関りが深い仏教絵図として知られています。私たちが何気なく有名な寺院を訪れた時、たまに見かける古い絵で、中央に大日如来を配置して、その周りに何体かの(あるいは、数多くの)仏様が囲むような図柄です。

 これは、真理の世界を表しているのか、あるいは、真理を求めるための道具なのか、私には分かりません。それでも、真言密教にとっては、極めて重要な役割を持つ絵のようです。

 四国霊場の72番目の札所の寺院は、曼荼羅寺空海とのつながりを彷彿とさせる名前です。

 

 

 72番曼荼羅寺

 曼荼羅寺は、出釈迦寺とは目と鼻の先ほどの位置関係。その間隔は、数百メートルといったところです。

 出釈迦寺を出て、緩く屈曲した坂道を下り、T字路を右折したすぐ左手に駐車場がありました。砂利で敷かれた駐車場に車を置いて、細い道路脇にある仁王門へと進みます。

 

 この札所の辺りは、出釈迦寺のある山の傾斜地がなだらかになった地形のところ。ここから先は集落がつながります。山の方角を見渡すと、斜面の農地が点在し、その向こうには捨身ヶ嶽の伝説の舞台となった、我拝師山なども見えました。

 

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※仁王門。

 

 曼荼羅寺

 曼荼羅寺の仁王門には、「我拝師山 曼荼羅寺」の表札が掲げられています。捨身ヶ嶽の伝説の舞台である我拝師山が、この霊場山号となっているのです。

 前回紹介した出釈迦寺は、捨身ヶ嶽伝説に基づいて築かれた寺院ということですが、釈迦如来を本尊と仰ぐ出釈迦寺と、真言密教の祖である空海とのつながりを思うと、どうもしっくりとはいきません。私の勝手な想像では、むしろこの曼荼羅寺こそが、我拝師山の伝説とつながる古刹のような気がします。

 そんなことを想いつつ、仁王門をくぐって、真っ直ぐに続く参道を進みます。参道の正面が本堂で、左手手前に大師堂がありました。

 

 曼荼羅寺は、空海が唐から帰国後に伽藍の再整備を行って、持ち帰った曼荼羅の絵図を奉納されたことから、この名前が付けられたということです。今もその絵図が存在するのかどうかは分かりませんが、大日如来を本尊とするこの寺院は、まさに真言密教の古刹です。

 

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※境内の様子。正面が本堂。

 

 大日如来と不老松

 曼荼羅寺の境内は、それほど大きくありません。仁王門から中に入ると、境内のほとんどが見渡せる程度の敷地です。

 この境内の右奥に、大日如来の比較的新しい石像が置かれていて、さらにその奥に、小さな祠と「不老松」の石碑がありました。

 「不老松」は、大きな笠状に張り出した、美しい老松だったようですが、平成13年から14年にかけて、枯れてしまったということです。石碑の傍には、在りし日の不老松の写真と、解説を記した案内板がありました。 

 

 71番弥谷寺

 次は、曼荼羅寺を後にして、弥谷寺(いやだにじ)に向かいます。善通寺市との境界に立ちはだかる山を抜け、盆地のような地形をした三豊市(みとよし)に入ります。この辺りは、瀬戸内海に近いわりには、周囲が山で囲まれていて、海の香りを感じません。

 特に、弥谷寺は、瀬戸内の海岸からそそり立つ弥谷山の中腹にあり、まさに山の中の寺院です。

 

 駐車場は、境内へと上る入口のさらに下。そこから一段上がった石段の入口に向かいます。

 そこには、ちょっとした土産物店があり、その前からは境内とつなぐ輸送バスの拠点がありました。バス料金は、片道400円。往復では600円だったと思います。石段を自力で上ると、約530段の強行です。さて、どちらを選ぶかはその人次第。私たちは、敢えて苦難の道を選択です。

 

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※左、石段の入口。右、仁王門への階段。

 弥谷寺

 500段を超える階段は、結構きつい道中です。途中には、観音像や様々な石像などもありますが、ゆっくりと見ている余裕はありません。

 お堂が配置された境内に辿り着くには、最後に、朱塗りの手摺を配置した、煩悩を消す108段の階段が待ち受けます。

 

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※左、境内に続く階段の中腹。右、108段の階段。

 

 石段を上り詰めると、その左手が大師堂。そして、さらに上に進むと、ようやく本堂に行き着きます。本堂への途中には、岩盤を掘りぬいたような洞窟上の空間に、石像などが彫られていて、自然と一体化した真言密教の奥ゆかしさを感じます。

 

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※左、本堂。右、岩を掘りぬいた辺りに石像が林立します。

 

 弥谷寺は、崖地に築かれたような境内で、霊験あらたかな雰囲気の札所です。特に、石段をひとつずつ踏みしめて、ようやく本堂を目にした時の達成感は格別です。歩き遍路の人たちにとっては、「何をこの程度で」と思われるかも知れません。それでも、厳粛なお堂を見上げ、振り向いて三豊市の景観を見晴らすと、心も洗われるような気分です。

 

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 ※本堂近くから三豊市観音寺市方面を望む。奥の山並みは四国山地でしょうか。

 

 本堂の参拝後は、崖際に続く細い石段を下って、先ほどの大師堂へと向かいます。この霊場の大師堂は、珍しい構造で、靴を脱いで建物の中に入ります。木造の階段を上ってお堂に入ると、左手が納経所。大師堂は右手です。

 ここでは、弘法大師が祀られた本尊の前で正座して参拝です。正座をして参拝する形式は、88か所の中でもほとんどとないと言ってよいでしょう。幾つかの霊場で、お堂の中への立ち入りが許されているところはあったとしても、この形式はここだけだったような気がします。


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※大師堂への入口。

 
 下りの石段は快適です。重力に任せて、一気に駐車場へと下ります。

 次に目指すは、本山寺。そして、観音寺方面に向かいます。

 

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)11・・・讃岐路(74番→73番)

 善通寺市郊外の3寺院

 

 善通寺市にある88か所霊場は、合わせて5か寺。これまでの金倉寺善通寺を除くと、あと3か寺です。

 いずれの霊場も、空海が生まれた善通寺から、それほど離れたところではありません。むしろ、往時としては、空海たちにとっては庭や裏山のような場所。幼少の子どもたちでも、駆け回っていたような、ふるさとの野山といったところです。

 

 

 74番甲山寺

 善通寺から甲山寺(こうやまじ)へは、5分もあれば到着します。位置的には善通寺の西側で、弘田川と言うのでしょうか、それほど大きくはない川のすぐ傍に境内がありました。

 ただ、甲山寺の侵入口には、砕石工場があるために、この方角に本当に霊場があるのかと、ためらってしまうようなところです。川伝いの道を工場へと入っていく感覚で車を進めると、意外と立派な駐車場が広がります。仁王門は、駐車場からすぐのところ。門をくぐると、その奥に境内が佇みます。

 

 甲山寺

 駐車場から仁王門をくぐって少し進むと、左手にもう一つの山門です。この山門から真っすぐに延びる参道の正面に本堂が見えました。

 

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※左、仁王門。右、山門。

 私たちは本堂で参拝し、次にその左側、少し石段を上ったところの大師堂へと向かいます。この霊場も、全体的に整備が行き届き、気持ちの良い境内です。

 帰り際、大師堂の左を見ると、小さな祠のようなお堂がありました。お堂の脇には、”弘法大師御作 毘沙門天尊”と記された大きな石碑が建っていて、興味深々。中に入って空海自身が彫られたという、毘沙門天に頭を下げました。

 どうして空海が、毘沙門天の石像を彫られたのか、少し興味も湧きますが、四国霊場の中には、一か所だけ、毘沙門天を本尊に仰ぐ寺院もあるようです。*1*2

 

 善通寺からほど近いこの寺院の辺りは、空海が幼少の頃から親しんでいた場所だったと思います。そんなことも背景としてあったのか、甲山寺の起源は、後に有名な満濃池の整備に取り組んだ弘法大師が、その工事の完了を記念して、造営したということです。

 

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※左、正面が本堂でその左隣が大師堂です。右、毘沙門天を祀ったお堂。

 

 73番出釈迦寺

 甲山寺から少し南西の方角に、少し高めの山地が連なります。ここは、善通寺市に隣接する、三豊市との境界あたり。山地の稜線を越えると、三豊市です。

 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は、この山地の山裾あたり。山に向かう扇状地のような傾斜地に、境内がありました。

 実は、出釈迦寺に向かう坂道の入口には、72番曼荼羅寺の案内が。二つの霊場は、それこそ目と鼻の先ほどの位置関係になるのです。

 

 出釈迦寺

 坂道を少し上ると、左手に駐車場がありました。そこから、少し戻って、境内の入口に向かいます。

 境内への導入路は、細長い坂道になっていて、その先は石段が続きます。坂道の左手は、整備が行き届いた庭園のようなスペースです。そこには、緑濃い山を背景にした弘法大師像などもありました。

 

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※左、駐車場から背面にもどると境内への入口です。中、右、境内へ続く坂道。

 石段を上り、山門をくぐって境内に入ります。砂利敷きの境内右奥に本堂があり、その右側が大師堂。それほど広くはない敷地です。

 この境内からは、善通寺市の街が俯瞰でき、見晴らしの良いところです。もしかして、遠方には、丸亀市などが見えているのかも知れません。

 

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※左、大師堂。その左手に見える屋根が本堂です。右、境内からの景色。

 捨身ヶ嶽の伝説

 出釈迦寺には、少し変わった空海の伝説が残っています。

 空海が7歳の時、この霊場の背後にある我拝師山という小高い山に登り、「我仏法に入りて一切の衆生を済度(しゅじょうをさいど)せん*3と欲す。吾願成就(わがねがいじょうじゅ)するものならば、釈迦牟尼世尊影現(しゃかむにせそんようげん)して*4證明(しょうめい)を与え給え。成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え、断崖絶壁頂より谷底に身を投じたとのこと。その時、釈迦如来と天女が現れて、空海を抱き留め、「一生成仏」と説かれたというのです。*5

 

 「一生成仏(いっしょうじょうぶつ)」とはどういう意味なのか。調べてみると、信心を厚くして励めば、一生の間に成仏できる。つまり、悟りを開くことができるということなのでしょうか。

 仏教への理解が乏しい私にとっては、表面的なことしか分かりませんが、この言葉は、かなり奥深い言葉であるようです。

 

 いずれにしても、空海は、こうした体験に基づいて、この地に釈迦を祀る寺院を建立されたというもので、その名前も、出釈迦寺。本尊は、釈迦如来となっているのです。

 

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※左、境内にあった弘法大師の像。右、捨身ヶ嶽の伝説を記す案内板。

 

 以上の伝説は、仏教と空海の関りを、強烈に示唆しているように受け取れます。しかし、何度も触れてきたように、空海は仏教のさらにその先にある、真言密教を極めた人。顕教と呼ばれる、釈迦如来によって広められた、経典に基づく仏教とは根本的に異なる体系です。

 釈迦の名を頂いたこの古刹。真言密教の祖である弘法大師とのつながりが、奇妙のようにも感じます。

*1:その霊場は、63番吉祥寺。伊予の国の西条市にある寺院です。

*2:真言密教の原点は、ヒンドゥー教などインド古代の思想とも関連があるようで、毘沙門天像もこのあたりのこととの繋がりなのかも知れません。

*3:生きているみんなを、救済するといういみでしょうか。

*4:釈迦如来が姿を現しということでしょうか。

*5:この記述は、下の写真にある案内板から引用しました。この案内板は、出釈迦寺の境内に掲げられています。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)10・・・空海の生誕地、善通寺

 空海の生誕地

 

 空海は、西暦774年、四国八十八か所霊場の第75番札所である、今の善通寺で生を受けました。時は、奈良時代末期。世の中は大きく動き始めている頃で、この後、遷都の波が押し寄せます。

 桓武天皇長岡京への遷都を命じたのが884年のこと。そのわずか10年後には、平安京へと都は移って行くのです。

 空海の歳に重ねると、誕生時が平城京。そして、10歳の時に平城京から長岡京へ。さらに、20歳の時には平安京へと変遷します。この時代の流れの中で、空海は成長し、その才能をいかんなく発揮しながら、来るべき平安の時代に大きく花を咲かせることになるのです。

 

 

 善通寺

 善通寺は、数ある四国霊場の中でも、最も広い境内を持つ寺院のひとつです。境内は、仁王門を挟んで、東西二つの敷地に別れています。東には、本堂にあたる金堂や五重塔などが、そして西には、大師堂にあたる御影堂などのお堂が並びます。

 駐車場からのアクセスは、まず、右手に空海記念碑を見ながら石造りの太鼓橋である済世橋を渡ります。その先には、中国風の屋根を有する山門です。この山門を通り抜けると西院(あるいは誕生院)で、空海の誕生地がこの辺り。左手にはパゴダ供養塔と呼ばれる、一風変わった建物や幾つかのお堂などがありました。パゴダ供養塔は、第二次世界大戦ビルマ戦線の犠牲者を弔う記念碑です。

 

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※左、空海記念碑。右、済世橋と山門。

 

 参道は、しばらく直進後、右手にある御影堂の正面へと続きます。御影堂は、これも、四国霊場の中では最大級。空海の生誕地としての威厳を感じます。

 西院を横切って、東院へと向かうと、途中二つの境内を挟むところには、仁王門がありました。通常、仁王門は境内の入口にありますが、善通寺だけは、少し趣が異なります。

 

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※左、御影堂(大師堂)。右、仁王門。仁王門の向こうは西院で、手前が東院。

 

 西院から東院に入った辺りにも、幾つかのお堂があって、その先が広々とした境内です。金堂(本堂)は、東院の左手奥で、右手には、五重の塔がそびえます。

 金堂には、かなり大きな黄金の薬師如来が祀られていて、その前で、多くのお遍路さんたちが読経を唱える様子は圧巻です。

 

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※左、金堂。右、金堂と五重の塔。

 

 私たちは、まずこの金堂で参拝し、その後西院に戻って、御影堂で再び参拝。納経所も西院にあることから、ほどよく境内を巡ることができるのです。

 

 この善通寺、御影堂がある西院は、元は讃岐の佐伯氏の屋敷があったところです。空海は佐伯善通卿を父に持ち、この屋敷で誕生したのです。

 善通寺の名称は、空海の父親の名前をとったもの。空海が唐から帰国した後に、屋敷の隣(東の敷地)に伽藍を整備し、父の名前をいただいて、善通寺と名付けられたということです。

 

 空海のこと

 空海は、幼少の頃から学問の才能をいかんなく発揮したようです。元は、讃岐の国の国府で学び、その後15歳の時、ふるさとを離れて奈良に向かいます。この当時、既に都は長岡京へと遷都されていましたが、依然として、奈良は重要なところだったことでしょう。

 そして、ほどなく新しい都の長岡京へと居を移し、そこでさらに学問を磨きます。空海は、官吏になることを期待されていたようですが、彼は違った道を歩みます。

 18歳か19歳の頃、密教の姿を追い求め、様々なところで修業を行ったあげく、遂に四国に渡ります。その四国の地は、讃岐ではなく阿波の国。奥深い山が連なる山岳地で修業をされたということです。

 四国霊場21番目の札所は太龍寺(たいりゅうじ)。この霊場に向かうために整備されたロープウエイから、山中の岩場で修業する空海の像が望めます。この地が確かに空海の修行地かどうかは分かりませんが、このような阿波の国の山中で、密教の真理を追い求められたということは、確かだと思います。

 

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太龍寺近くの岩場の上に、空海の修行増が確認できます。

 空海は、その後、さらに修行を重ねるために、土佐の国の最御崎(ほつみさき)に向かいます。この地は、今の室戸岬。太平洋の波が岩場を砕く厳しい環境のところです。

 かつては、阿波の国から最御崎に至る道中は、人里も少なく、険しい道のりだったということです。今でも、23番札所の薬王寺*1と24番札所の最御崎寺は、80Kmほどの距離があり、歩き遍路の方たちは、途中で2~3泊しなければならない長丁場。空海の時代は、”最果ての地”という感覚だったと思います。

 

 この最御崎、岬の最先端には、今は室戸岬灯台があり、その真後ろの山の中に最御崎寺があるのです。

 空海が修行をした場所は、岬の最先端からやや北側で、その場所は「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれています。今も、海岸沿いの国道を走っていると、道路のすぐ山側にこの洞窟が残っています。

 洞窟は二つあって、向かって右が修行の洞窟、左側は生活の洞窟だったということです。今ではこの洞窟に入ることは許されていませんが、そこから外を眺めると、果てしない空と海の世界が広がっていたことでしょう。

 

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※左、御厨人窟。右、岬の岩場。

 

 ここで明星を認め(御厨人窟にあった解説では、明星が空海の口に入ったと記されています。)、真言密教への足掛かりをつかんだ空海は、いつの日か再び都にもどります。そして、空海がおよそ30歳の頃、真の密教を求めて遣唐使の一行に加わることになるのです。

 世の中は、既に平安時代空海の偉業が始まります。

 

 次回の巡り旅のスケッチは、空海が幼少の頃から親しんだ善通寺近くの古刹、74番甲山寺へと向かいます。

 

*1:薬王寺は、ウミガメの産卵で有名な徳島の日和佐海岸の近くにある寺院です。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)9・・・讃岐路(76番→75番)

 空海の出生地

 

 四国八十八か所霊場は、76番札所から善通寺市に入ります。善通寺市は、名前の通り善通寺門前町空海の生誕地としても有名です。

 この地に生を受け、幼少の頃から天才的な才能を発揮していた空海は、どのような日常を送っていたのでしょう。瀬戸内地方の温暖な気候と、のどかな田園が広がる讃岐平野の西側は、全体として穏和な印象を受けるところです。この穏やかな地域から、即身成仏の極みを悟る高僧を輩出したということを、どのように捉えればよいのでしょうか。

 空海の生い立ちを想像しながら、善通寺の寺院を巡ります。

 

 

 76番金倉寺

 多度津町道隆寺を出て、南方に隣接する善通寺市へと向かいます。金倉寺(こんぞうじ)は、JR土讃線金蔵寺駅の近くにあって、この辺りは金蔵寺町。その昔は、金倉郷(かなくらごう)と呼ばれていたようで、金倉寺(こんぞうじ)の名称はここからきているということです。

 この金蔵寺町に入って間もなくの所で、県道から一筋東の通りに向かいます。細い道を少し進むと、金倉寺の駐車場。そして、駐車場のすぐ奥が境内です。

 

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金倉寺駐車場から。境内へは、左の廊下下の入口から入ります。正面のお堂は大師堂。

 金倉寺

 駐車場から渡り廊下の下をくぐって境内に入ると、すぐ右手が大師堂。そして、左前方に立派な本堂がありました。境内は、周囲には幾つかのお堂などの建物が見られます。仁王門は本堂の向かい側。今回は仁王門から入らずに、脇道からの参拝です。

 

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※左、境内の様子。右、本堂。

 

 金倉寺は、「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)5」でも少し触れたように、智証大師(円珍)にゆかりがある寺院です。円珍は、金倉寺の辺りで生を受け、後に天台宗の跡を継ぐ僧侶になる方で、空海とは血縁の間柄。諸説あるようですが、空海の姪が円珍の母親と言われています。

 この寺は、遣唐使として長安を訪れていた円珍*1が、帰国後に逗留し、伽藍の整備を行ったとのこと。円珍とのゆかりが深い寺院です。こうしたことから、金倉寺は、82番の根香寺(ねごろじ)と同様に、四国霊場では珍しい天台宗の寺院です。

 

 智証大師と金倉寺

 この金倉寺には、今でも智証大師(円珍)の面影を認める跡が残っています。

 そのひとつは、大師堂。普通、大師堂は弘法大師を祀るお堂ということで、本尊は弘法大師の座像です。お堂の扁額も、「弘法大師」や「遍照金剛」といった、弘法大師の名称が掲げられているのが普通です。ところが、この寺の大師堂は、弘法大師と同様に、智証大師の座像も鎮座されているということです。しかも、扁額には、中央が智証大師、右が弘法大師、そして左には神變菩薩(神変)と記されているのです。

 神變菩薩については、私にとって全く知らない存在で、扁額を目にした時も、特に印象が残ったという訳ではありません。ただ、後々調べてみると、この方は、600年代の後半に山岳修行を行われていた行者のようで、円珍は、この方の影響を受けられたとか。

 7世紀の神變菩薩、8~9世紀の弘法大師、9世紀の智証大師と、3世紀にわたって密教世界を牽引された高僧の名が、ここの扁額に記されていたのです。

 

 

 ところで、空海円珍。ともに讃岐の地で誕生し、後に遣唐使として長安を訪れて、密教を極めます。空海は、それこそ真言密教の伝授を授かり、高野山を開いて多くの人々の信仰を集めた一方、円珍は、若くして比叡山に登り、天台密教を引き継ぎます。

 空海と血のつながりがありながら、空海が極めた真言密教とは違う方向に進んだ円珍という高僧。どのような思想が働いて、空海の後を追うことなく、天台密教の道を選ばれたのか。いつかまた、知りたいような気がします。

 

 もうひとつ、金倉寺の境内には、”入山大師像”と記された智証大師の像が置かれています。弘法大師像とは全体の雰囲気が大きく異なるこの像は、円珍比叡山に入山した頃の、若き日の姿のように感じます。

 金倉寺は、弘法大師信仰の古刹のひとつであるとともに、讃岐の国が輩出した、もう一人の偉人である、智証大師を中心に据えた寺院でもあるのです。

 

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 ※入山大師の像。

 

 75番善通寺

 次は、空海の生誕地、善通寺です。金倉寺からは、南に向かって車でわずか15分ほどの距離。善通寺市街地のやや西側に位置します。

 善通寺の境内は広大なため、専用の駐車場に入るのが最適です。74番甲山寺甲山寺)から、順巡りで善通寺に向かう場合は分かりやすい道ですが、金倉寺から逆方向に向かっていくと、少しわかりにくい道筋です。目印は、”四国こどもとおとなの医療センター”の建物で、カラフルな心地よい意匠の建物前を通り過ぎ、すぐに左に大きく折れると、専用駐車場に行き着きます。

 自動開閉機がある広々とした駐車場。右手の山裾には、稲荷大明神の大きな朱塗りの鳥居が印象的なところです。

 

 空海の生誕地

 善通寺は、空海の生誕地。駐車場から参道に向かう入口あたりに、空海記念碑がありました。

 善通寺はまた、四国八十八か所の総元締め。駐車場の一角には、お遍路用具やお土産を販売するお店の他、四国八十八か所霊場霊場会事務局の看板などもありました。

 

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※駐車場から参道へ。右に空海記念碑が見えます。

 

 次回は、善通寺境内の様子と、空海について少し触れようと思います。

 

*1:円珍遣唐使として派遣されたのは、853年から858年ということです。空海が入定されたのが835年ということで、円珍長安に入った18年前に、空海はこの世を去ってたということになります。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)8・・・讃岐路(78番→77番)

 宇多津と多度津

 

 天皇寺を後にして、県道33号を坂出市の中心部方面に向かいます。坂出は、瀬戸大橋の結節点で、児島・坂出ルートの四国側の起点です。県道は、市街地を横断して橋に続く瀬戸中央自動車道の高架下をくぐり抜け、西隣の町、宇多津町へと入ります。

 四国霊場は、この先は、宇多津町と多度津町の寺院を巡り、いよいよ、空海の出身地、善通寺市につながります。

 

 78番郷照寺

 坂出市の中心部を横切って、瀬戸中央自動車道の高架をぬけると、宇多津町に入ります。この町は人口は2万人弱ですが、街中には住宅地が広がって、賑わいも感じます。

 郷照寺(ごうしょうじ)は、JR沿線に広がる宇多津の街から、少し南の方角で、地図で見ると青野山の麓にあたります。

 郷照寺へのアクセスは、住宅地内をうまくすり抜けて行く必要があり、なかなか苦戦するところ。以前にも訪れてはいるものの、今回も同じ間違いを犯すことになりました。

 最初は、カーナビを頼って走ったところ、道は青野山への方向へ。慌てて進路を修正するも、目的地に近づくことができません。右往左往しながら住宅地をさまよっていると、小さな案内看板が見えました。この案内に従って、町中の小道をおそるおそる進みます。やがて、駐車場の方向を示す看板が現れて、細い舗装道路の方向へ。

 心細くなるような狭い道のその先に、ようやく、郷照寺の山門です。道路をまたいで建てられた山門をくぐり抜けると、その奥が駐車場。なかなか分かりにくいアクセスでした。

 

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郷照寺の境内へ。

 

 郷照寺

  郷照寺は、全体としてスッキリとした寺院です。白壁や石垣など、境内の施設は手入れが行き届いていている感じです。駐車場から続く石段を上がると、清楚な感じの境内で、整然と敷き詰められた砂利の敷地の右手には、破風が美しい本堂が構えます。

 先に、82番根香寺のところで少し触れたと思うのですが、四国霊場のほとんどは真言宗の寺院です。ところが、根香寺は、智証大師のゆかりがあって天台宗。そして、この郷照寺は、一遍上人(いっぺんしょうにん)がかかわって再興されたということで、四国霊場ではただ一つの時宗(じしゅう)の寺院ということです。

 鎌倉時代に地方を行脚し、「南無阿弥陀仏」の唱えを説いた一遍上人。仏の救いを求める時宗の世界と、宇宙の真理を探究する空海真言密教が同居する、珍しい寺院の形です。

 

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 ※左、本堂。右、本堂脇から大師堂を望みます。

 

 本堂への参拝後は、左側に続く石段を登り、大師堂へと向かいます。

 大師堂も、小じんまりとしているものの、整然とした美しいお堂です。そして、このお堂の左手に、観音像が置かれていて、地下に下りる階段がありました。いかにも不思議な気分になって、その階段を下りていくと、そこには黄金輝く幾つもの小さな観音像が神々しく据えられていたのです。

 万体観音と称される観音群は見事な光景で、根香寺の回廊と似てはいるものの、また異なった厳かさを感じます。

 

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※大師堂脇の観音像と万体観音。

 

 77番道隆寺

 郷照寺の次の札所は、多度津町にある道隆寺(どうりゅうじ)。宇多津町から丸亀市を通り抜け、讃岐の西側の地域に向かいます。

 多度津の町は、ところどころに農地も広がり、落ち着いた雰囲気です。道隆寺は、県道から少しだけ細い道を入ったところ。仁王門前の一角だけが、駐車場などが整備され、広い空間になっています。中山道などの旧街道でも、道が折れ曲がる辺りだけに、少し広いスペースが残っているところがありますが、まさにそのような空間が道隆寺の門前にありました。

 

 道隆寺

 道隆寺の仁王門は、堂々とした立派な構えです。金剛力士像の姿も勇壮で、身が引き締まる気がします。門からは、正面奥に凛として佇む本堂も望めます。四国霊場の中では、少し規模が大きめの本堂で、大屋根の威風が印象的な建物です。

 仁王門をくぐると、真っ直ぐに参道が延びていて、左手には、幾つもの観音像が並びます。この観音像は、本堂近くの境内にも配置され、巡拝者を見守っていてくれている様子です。

 

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※左、仁王門。右、観音像と本堂。

 本堂への参拝が終わると、次はその右手に控える大師堂へ。大師堂の近くには、石塔と弘法大師の像がありました。

 この大師像、写真にもあるように、巡拝の人が大師の前にひざまずく姿もあって、珍しい構図です。

 

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弘法大師像と大師堂。

 

 道隆寺の門前は、先ほども触れたとおり、ちょっとしたスペースが広がります。このスペースに面した一角に、(仁王門に向かって右手側、帰路の方向では、門を出てすぐ左)一軒のお店がありました。

 お土産や、お遍路用具が揃えられた店のようで、かつてはこのようなお店が幾つか並んでいたのかも知れません。