旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]22・・・善峯寺

 西山へ

 

 京都市内の札所巡りを終えた後、その後は、一気に郊外へと向かいます。続く札所の善峯寺(よしみねでら)は、京都盆地のさらに西。京都市と隣接する、向日市長岡京市を通り過ぎ、大阪府と隣接する山中に境内を構えています。ただ、善峯寺の所在地は、京都市西京区大原野。元々、大原野村という、独立した自治体だったようですが、昭和34年の合併で、京都市編入されたということです。

 この善峯寺がある辺り、通称、西山と呼ばれています。都の西に連なる山は、日が沈む方角にあり、都人には、黄泉の国とも通じるような、特別な場所だったことでしょう。

 

 

※善峯寺のパンフレットより。

 

 山門へ

 第20番目の札所である、善峯寺へと向かう道は、府道208号線。幅の狭い坂道を、蛇行を繰り返しながら上ります。途中には、古くからの集落もありますが、ちょっとした食堂などもあったような気がします。

 やがて、右方向に立派な駐車場の導入ゲート。ゲートを抜けて、さらに奥へと向かいます。その先には、立派なコンクリートの建物(文殊寺宝館)があり、建物下を潜り抜ける導線です。

 奥へ奥へと進んで行くと、突き当りは最先端の駐車場。境内の至近の位置に車を停めて、観音霊場へと向かいます。

 

※東門への道。

 

 境内へ

 駐車場からすぐ先の、そこそこ急な坂道を上ります。植え込みが丁寧に刈り込みされて、すっきりとした導線を作っています。

 見上げると、「日本一の松」と刻まれた、大きな石柱がありました。そこには、「天然記念物 遊龍」とも書かれています。境内には、”ゆうりゅう”と名付けられた有名な松があるようです。

 

 山門

 東門をくぐった先を、もう少し上って行くと、今度は立派な山門です。楼門の姿を有したこの門は、金剛力士像も祀られていて、重厚な雰囲気を放っています。

 私たちは、ここで入山料500円を支払って、境内へと入ります。

 

※重厚な雰囲気漂う山門。

 山門からは、正面奥に本堂が望めます。真っ直ぐ延びる参道と本堂に延びる石段が、歴史ある境内の構造物と調和して、見事な空間を作っています。

 

※山門から境内を望みます。

 

 本堂

 参道を本堂へと向かって行く途中には、青銅製の立派な灯籠が置かれています。外部の邪気を払うように、真正面に構えています。

 参道は、真っ直ぐ進んで石段へ。右側は、石垣が配されて、その上は白壁が囲っています。

 

※燈籠から本堂へ。

 

 石段を上り進むと、正面が本堂です。柱には、「西国第二十番 観音堂」と書かれています。十一面千手観音菩薩像をお祀りするこの本堂。数多い、善峯寺のお堂の中で、”観音様がおられるところ”であることを、より分かり易く示しているのだと思います。

 因みに、この寺院には、阿弥陀堂や釈迦堂など、仏像の名前を冠した幾つかのお堂があるようです

 私たちは、本堂でお参りし、御朱印を頂きます。

 

※本堂(観音堂

 経堂と多宝塔

 参拝を終えた後、左手の一段上の境内には、多宝塔や小さなお堂が見えました。また、そこに上る石段の手前には、遊龍の松への案内です。よく見ると、石垣の直ぐ上には、左右につながる松の枝。おそらくそれが遊龍の松でしょう。

 私たちは、直接そこへは上らずに、本堂の脇を通って、少し奥から松の方へと向かいます。

 

※多宝塔や遊龍の松が上方に望めます。

 

 阿弥陀堂への坂道

 本堂脇を過ぎた先は、阿弥陀堂へと延びている緩やかな坂道です。12月の初旬であっても、まだ、名残の紅葉も見られます。どこか、裏寂しくもありますが、その分、奥ゆかしさが深まるような光景です。

 この坂道を少し上って、右へと折れる石段を上ります。

 

阿弥陀堂へと向かう坂道。


 経堂など

 石段を上り進むと、すぐ先が経堂です。扉から中を覗くと、少し変わった色彩調の仏像がありました。

 お寺で頂いた資料を見ると、この方は、中国の高僧のよう。このお堂には、この方が関連する重要な教典などが納められているのでしょう。

 

※経堂。

 

 遊龍の松

 経堂や多宝塔の前面は、それほど広い敷地ではありません。それでも、立派な植え込みや、先ほどから触れている遊龍の松などが植えられていて、特別な雰囲気を醸しています。

 

※遊龍の松の見事な枝ぶり。

 もう少し先に進むと、松の様子がはっきりと分かります。波打つような松の葉の塊が、長々と続いています。

 資料には、現在全長37mと書かれています。国指定の天然記念物のこの松は、安政4年、花山前右大臣厚公により”遊龍(ゆうりゅう)”と名付けられたと言うことです。

 

※遊龍の松。

 善峯寺のこと

 最後に、善峯寺のことについて、少しだけ触れておきたいと思います。

 この寺は、西国観音霊場の第20番目の札所であり、各地から多くの人が訪れます。元々、平安中期に開かれたようですが、鎌倉期や室町期に隆盛を極めた様子です。

 その後、応仁の乱により、大半の坊が焼失したとのことであり、以後、荒廃の期間などもあったのだと思います。

 この寺が、現在の姿に復興したのは、江戸時代。徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院によるものです。庶民から将軍の母となった桂昌院。「桂昌院出生の由緒により」この寺に祀られている薬師如来は、「『出世薬師如来』と云われる」との説明書きが、寺の資料に書かれています。

 

 天気が良ければ、境内から、長岡京の街並みなどが見下ろせるのかも知れません。今回は、あいにくの曇天で、遠方の景観を観ることができません。また、いつの日か、訪れてみたいと思います。

 

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]21・・・革堂行願寺

 西国三十三所の最終章

 

 今回から、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」の最終章(第3章)に入ります。紀伊半島熊野の地から始まった、観音霊場を巡る旅。およそ1年前*1に綴り始めた第1章では、1番札所の青岸渡寺から8番札所の長谷寺までを描くことになりました。そして昨秋*2の第2章では、9番目の興福寺南円堂から18番六角堂頂法寺までを紹介してきたところです。

 今回は、この旅の最終章。続く19番札所から最終の33番谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)まで、およそ20回のシリーズで描いていきたいと思います。

 

soranokaori.hatenablog.com

 

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 人々を救うため、33のお姿に変化すると伝えられる観音様。元々は、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]10」の中で綴ったように、奈良時代初期の頃、大和の地、長谷寺の徳道上人が発起された巡礼です。様々な変遷を経て、後に、花山法皇が復興され、今日に伝わったと言われています。

 このブログでは、近畿地方一円に分散している霊場を、夫婦2人で少しずつ巡り歩いた足跡をお伝えしていきたいと思います。

 

 

 京都の霊場

 京都府には、33の札所の内、その3分の1にも及ぶ11か寺が存在します。ただし、北は丹後の国から南は宇治までと、広範囲に分散している状況です。この中で、京の都と言える場所では、5か寺ほどがその境内を構えています。

 まず、第15番今熊野観音寺。この寺は、有名な東福寺のすぐ傍に身を隠すよう佇みます。続く札所は、第16番清水寺。余りにも有名な、東山の古刹です。そして、平家などで有名な第17番六波羅蜜寺。さらに、親鸞聖人が百日参籠の修行を果たした、第18番六角堂頂法寺と続きます。

 残る1つが、今回描く革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ)という寺院です。この寺院、他の4か寺と比べると、認知度は随分低いように感じます。私自身も、今回の霊場巡りで初めて知ることになりました。

 京都御所のすぐ近く、寺町通りに境内を置く、京の都の最後の霊場に向かいます。

 

 

 寺町竹屋町通

 第19番目の札所である、革堂行願寺。この霊場は、京都御所のすぐ近く、南北の寺町通りに、西からの竹屋町通りが突き当たったすぐ先に境内を構えています。

 辺りは、京都ならではの落ち着いた街並みで、寺町通りの僅かな間口に、山門が置かれています。

 

※GooglMapsより。

 

 まだ、それほど古くは感じない山門前に近づくと、境内が窺えます。見てみると、中はそれほど広くは感じません。街中のわずかな場所に、境内があるようです。

 門から先は、赤毛氈(もうせん)が敷かれていて、少し高貴な雰囲気が漂います。私たちは、門を潜って鮮やかな毛氈の道を進みます。

 

※革堂行願寺の山門。

 

 フジバカマ

 本堂は、毛氈上を真っ直ぐ進んだ突き当たり。参道の左右には、可憐に花を咲かせたフジバカマの鉢植えが並んでいます。

 私たちがこの寺院を訪れたのは、10月の14日。毎年この頃に、藤袴祭が催行されているということです。

 赤毛氈とフジバカマ、そして、正面は革堂行願寺の本堂です。滅多に見られない空間が、目の前に開けています。

 

※見事な空間の中を本堂へと向かいます。

 

 本堂

 私たちは、本堂へと足を進めて、早速、観音霊場の参拝です。十一面観世音菩薩をお祀りしているこの本堂、それほど大きなお堂ではありません。それでも、歴史を感じる建物からは、荘厳さを感じます。

 

※本堂。

 ”革堂”のこと

 革堂(こうどう)行願寺という寺院名。冠の”革堂”は、どのような意味があるのでしょう。『西国三十三所をめぐる本』((株)京阪神エルマガジン社)の資料を見ると、寺を開いた行円和尚は、狩り好きの人だったとか。この方が、鹿の殺生への後悔から、鹿革をまとうことになり、やがて、革聖(かわひじり)と呼ばれるようになったそう。この、革聖が建立したお堂ゆえ、”革堂”の冠が付けられたというのです。

 

 寿老神(じゅろうじん)堂

 私たちは、本堂の参拝を終え御朱印を頂きます。

 帰路の途で、本堂を背にした右方向には、もう一つの参道がありました。わずかな敷地の境内ですが、幾つかのお堂などが所狭しと並んでいます。

 よく見ると、奥の方には、「寿老神堂」と記された表示板が置かれています。その案内に導かれ、境内奥へと進みます。

 

※本堂を背にして右奥に続く参道。

 寿老神堂は、七福神の柱のひとつ、寿老神をお祀りしたお堂です。長寿を授ける神様にも手を合わせ、御利益を念じたものでした。

 

※寿老神堂。

 七福神

 寿老神堂の右手奥には、まだ新しい七福神の石像もありました。後に知ったことですが、京都には、「都七福神まいり」と呼ばれている、神様巡りがあるようです。都内の七つの寺社に、それぞれの神様を祀るお堂があって、そこを巡ってご利益を得るというのです。

 革堂行願寺では、寿老神。西国三十三所とともに、七福神の巡礼の地でもあったのです。

 

七福神の石像。

 帰路

 境内での参拝を終え、帰路の途へ。途中には、お地蔵様が祀られた、小さなお堂などもありました。

 

※お地蔵様などが祀られたお堂。

 

*1:2023年3月31日~5月1日

*2:2023年9月29日~10月30日

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]20・・・最終回(仏教伝来の地へ)

 初瀬川

 

 初瀬川(はつせがわ、或いは、はせがわ。泊瀬川とも書くようです)は、正式には、大和川と呼ばれています。上流は、三輪山の背後にあたり、古代から神聖な場所でした。そこには後に、長谷寺が興隆し、都からも、多くの人が訪れていたということです。

 百人一首にも歌われた初瀬(はつせ)の地。山おろしが吹き下ろすこの川は、宇陀につながる深い山に端を発して、三輪山を取り巻くように流れています。その先は、大和盆地を横断し、大和郡山辺りから、王寺町を経由して河内の国へ、そして、瀬戸内へと注ぎこんでいるのです。

 古代には、この流れを利用して交易が行われ、また、人々の重要な交通手段でもありました。大陸から伝わった仏教も、初瀬川を遡り、三輪山麓に展開した古代の宮へと、その教えや教典などが届けられたということです。

 

 

 海石榴市(つばいち)

 古くからの街道筋を南へと向かって行くと、小さな三叉路の角のところに、「海石榴市」と表示された案内板がありました。

 「ここ金屋のあたりは古代の市場海石榴市のあったところです」と書かれている通り、この辺りに、有名な市が置かれていたのです。

 

※海石榴市の案内板。

 今はもちろん、市の名残りはありません。ただ、三叉路を左に入ったところには、「海石榴市観音堂」と名づけられた小さなお堂が今も残り、”海石榴市”という貴重な名前を残しています。

 

 海石榴市観音堂

 私たちは、三叉路の左脇道へと歩を進め、海石榴市観音堂に向かいます。

 細い坂道を100mほど進んで行くと、民家の奥に、それらしき建物が見えました。さぞかし、歴史あるお堂かと想像していましたが、意外と近代的な建物です。敷地もそれほど広くはありません。長い歴史の経過の中で、何とか、維持されてきたのでしょう。

 古代の町の名前を冠したお堂の前で手を合わせ、遠い昔の市の様子を思い浮かべたものでした。

 

※海石榴市観音堂

 

 観音堂の敷地には、幾つかの石像や石仏が並んでいます。いかにも歴史を感じる石像などを見ていると、やはり、歴史の重みを感じます。

 敷地内の説明板の内容を、少し紹介させて頂きます。

 

 「海石榴市は、古代から栄えた交易都市です。大陸の使節も大和側の舟運を利用して、この地まで遡りました。」

 「この市は歌垣で有名です。人々は歌を通じて愛を交歓したのです。」

 「王朝以来、ここはまた長谷寺詣での宿場として栄え、『枕草子』『源氏物語』『かげろう日記』などにも登場します。」

 「古くからあった観音堂が老朽したので、近似建てかえられました。」

 

 断片的ではありますが、古代からの海石榴市の状況が何となく見て取れる説明です。

 

※海石榴市観音堂の境内。

 

 終着点へ

 海石榴市観音堂を後にして、再び三叉路に戻ります。その先は、もう少し先に続く、金屋の集落を進みます。

 しばらくすると、正面奥で民家は途切れ、その先に、緑の帯が見えました。おそらくそこが、山の辺の道の終着点。初瀬川の右岸の堤になるのでしょう。あと少し、最後の行程を歩きます。

 

※金谷の集落の最後の区間。正面に初瀬川右岸の堤が望めます。

 

 集落が途切れた先は、T字路の交差点。左右につながるこの道が、伊勢街道なのだと思います。道端に置かれた標石は、「左 いせ」と刻んでいます。

 ただ、直進の方向にも、極く幅の狭い、通路状の小径です。この小径、初瀬川へとつながっている山の辺の道の先線です。私たちは、小径を真っ直ぐ突き切って、堤防に向かいます。

 

※伊勢街道との交差点。

 

 初瀬川(大和川

 堤防に辿り着いたら、そこには、初瀬川が流れています。この場所が、山の辺の道の終着点。奈良公園から始まって、桜井市のこの地点まで、およそ35kmの道のりを歩き通すことができました。

 

※山の辺の道の終着点。中央の案内表示「→山の辺の道」が目印です。

 

 山の辺の道の道筋は、それほどの苦労もなく、ハイキングの気分の中で楽しく歩けるコースです。初瀬川の流れを見ながら、ここまでの道の景色を思い返したものでした。

 

※山の辺の道の終着点、初瀬川。

 

 仏教伝来の地

 山の辺の道の終点から、少し上流を眺めていると、立派な石碑が屹立する一角がありました。

 近づいてみたところ、「佛教傳来之地」との表示です。

 対馬の海を越え、瀬戸内海を横切って、初瀬川へとやってきた大陸百済(くだら)の人々は、この地で、舟を下り、当時の大和の政権に仏教を伝えたということです。

 

※仏教伝来の地の石碑。

 石碑が置かれたところには、幾つかの説明板も置かれています。ここでは、分かり易く記された、桜井市観光協会の説明書きを紹介させて頂きます。

 

 「金屋から城島(しきしま)小学校にかけての泊瀬(はせ)川一帯は欽明天皇・磯嶋金刺宮(しきしまかねさしのみや)が置かれたところで、西暦552年に百済から初めて仏教が公式に伝えられた地であります。」

 「この時期は盛んに外国との交流があり、当時の桜井市は国際都市として栄え、いわゆる『しきしまの大和』といって日本国の称号(たたえな)と呼ばれる中心地でありました。」

 

※仏教伝来の地の説明板。

 桜井駅へ

 山の辺の道を踏破して、仏教伝来の地の石碑などに感銘しながら、私たちは、桜井駅へと向かいます。

 終着点から駅までは、まだ、1キロ以上の道のりです。帰路の途は、少し疲れ気味ではありますが、仕方がありません。最後の力を振り絞り、桜井の街なかを歩きます。

 

 

 次回

 今回で、「歩き旅のスケッチ[山の辺の道]」のシリーズを終わります。

 次回からは、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」の第3章。これまでの第1・2章に引き続き、第19番札所から最終の33番札所まで、観音霊場巡拝の旅を描きます。

 なお、私は現在「北国街道」歩き旅の真っ最中。信濃追分を起点として、中山道の宿場町、近江鳥居本を目指してはいるのですが、さて何処まで歩けるか。今回は、川中島から上越市高田までの行程です。その中で、今日は長野善光寺から飯綱町の牟礼宿までを歩く事ができました。

 と言う訳で、次回のブログは1週間のお休みを頂いて、4月15日から再開させて頂きます。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]19・・・海石榴市へ

 交易の地

 

 三輪山の南の地域は、縦横(南北と東西)に延びている、古代の道の交差点にあたります。縦の道は、言うまでもなく山の辺の道。そして、横に延びているのは、伊勢街道(或いは、初瀬街道)と呼ばれています。

 山の辺の道のさらに南は、神功皇后(じんぐうこうごう)や継体天皇などが居を構えた、磐余(いわれ)の地。そしてその先は、飛鳥へとつながります。

 一方で、東西を結ぶ伊勢街道の西側は、古くからの宿場であった八木の町(橿原市)。そして、その先で河内の国とを結んでいる、竹内街道(たけのうちかいどう)につながります。

 このように、古代大和の主要な道が交差する、重要な交易の地が三輪山の南山麓にありました。この地には、海石榴市(つばいち)という有名な市が設けられ、各方面からたくさんの人々が集い交流したということです。

 今歩く、山の辺の道。この先は、古代の交通の要衝地、海石榴市へと向かいます。

 

 

 最終区間

 山の辺の道の最後区間は、大神神社(おおみわじんじゃ)と初瀬川(はせがわ、或いは、はつせがわ)とを結ぶ道。残すところは、あと、1キロ余りです。

 下の地図にあるように、平等寺、金屋の石仏を経由して海石榴市へ。そして、その先で初瀬川に行き着きます。古代から、河内や瀬戸内海とを結んでいた、水運交通拠点の地。その場所が、山の辺の道の終着点になるのです。

 

※山の辺の道美化促進協議会発行の資料より。


 山の辺の道へ

 大神神社の大鳥居を左に見ながら、神社敷地の南の道を東(三輪山)方向に進みます。この道は、前回触れたように、山の辺の道ではありません。昼食のため道を外れて鳥居前に出てきたために、そこから元の道へと戻るのです。

 本来の山の辺の道の道筋は、大神神社の拝殿近くを横切ってそのまま境内の南出口の方向へ。私たちはその地点まで、神社の南伝いに進みます。

 

※この先の角を左に曲がって坂を上ると山の辺の道と合流します。

 平等寺

 大神神社の南側の坂道を上って行くと、やがて、山の辺の道に合流します。合流後は、南に向きを変えて、平等寺を目指します。

 途中には、鮮やかな朱塗りの鳥居が幾つかかかる、稲荷神社がありました。

 

※右手に稲荷神社を認めて南の方向へ。

 

 三輪山の麓伝いに歩いて行くと、その先で、平等寺を案内する石柱です。少し奥まったところに、密かに佇む平等寺。幾つかの由来の説があるようですが、鎌倉時代あたりから、信心が集められていたようです。

 

平等寺へと向かいます。

 

 細い道を進んで行くと、その先に、平等寺の山門がありました。豪華さは無いものの、しっかりとした構えの山門です。奥には、朱塗りのお堂や幾つかの建物が並んでいます。

 私たちは、本堂前で手を合わせ、続きの道を歩きます。

 

平等寺

 

 金屋の石仏へ

 平等寺を出た後は、竹林に囲まれた、細い道を進みます。この辺り、遊歩道のような状態で、初夏の日差しが遮られ、清涼感が味わえます。

 

※木々に覆われた小道を進みます。

 

 しばらくすると、「金屋の石仏・海石榴市」を指し示す案内表示がありました。道は、石畳風に整備され、整った感じの道筋です。

 

※石畳風に整備された道筋。

 

 金屋の石仏

 石畳の細道を進んで行くと、左手に、コンクリートで建てられた、簡素なお堂が見えました。とても立派とは言えない感じのこのお堂、何もなければ、そのまま通り過ぎてしまいます。

 幸いにも、道端の案内板が目を引いて、これが、石仏を収蔵したお堂だと知りました。

 

※金谷の石仏を納めた収蔵庫。

 

 この石仏、金屋と呼ばれる地域にあるため、「金屋の石仏」と呼ばれています。どんなものかと興味を抱き、お堂の中を覗きます。

 そこには、長方形の2枚の岩が並べられ、それぞれに、仏様が彫られています。素朴ながらも、風雪に耐えてきたようなお姿です。

 

 「この中におさめられた二体の石仏は右が釈迦左が彌勒と推定されています。高さ2.2m幅約80cmの二枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は、古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財の指定をうけています。」

 

 これは、お堂前の案内板の説明です。古代の大和王権の時代には、まだ仏教は伝来してはいないため、歴史的にはそれよりも、新しいものでしょう。それでも、どことなく、初期仏教の雰囲気が感じられる石仏です。

 

※お堂の中に二体の石仏が置かれています。

 海石榴市へ

 厳重に保管された石像前で手を合わせ、続きの道を歩きます。

 この先は、少しの間、由緒がありそうな民家のすき間を縫うように進みます。板塀や白壁が、旅情を掻き立てるような小径です。

 

※金谷の集落内を進みます。

 山の辺の道は、やがて、街道のような道筋につながります。この道は、どのような性格の道かは分かりませんが、見るからに、街道です。おそらく、山の辺の道より新しい、街道筋だと思います。

 見るからに、宿場町の雰囲気が色濃く漂っているのが分かります。

 

※金谷の集落を通る街道筋。

 

 落ち着いた町並みを眺めながら、緩やかに蛇行する道筋を進みます。この道は、この先で、大きく左に曲がり込み、初瀬川の流れを見ながら長谷寺の方向へと向かいます。

 奈良時代、或いは、平安以降の人々は、この道伝いに長谷寺へ、さらには、伊勢神宮へと向かったのかも知れません。

 

※古くからの街道筋のような道筋。

 

 古代の交易地である海石榴市(つばいち)は、もう間もなくのところです。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]18・・・大神神社

 大物主神(おおものぬしのかみ)

 

 三輪山の麓に佇む大神神社(おおみわじんじゃ)。神話にも登場する、大物主神をお祀りした古代からの社です。

 前々回に紹介した、天照大神と倭大国魂(以下に登場する大神神社の御祭神”大物主神”と同一)の2つの神。当初は共に、崇神天皇*1の宮中でお祀りしていたようですが、世の中が、疫病や反乱で混乱する中、天皇は、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託すことにして、先に訪れた桧原神社に祀ります。そして、倭大国魂(大物主神)は、渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみとと)を司祭者として、別々に祀ることになるのです。

 

大神神社拝殿。

 

 ところが、世の中の混乱は治まることはありません。そのために、崇神天皇は、占いに頼ることになりました。この時の占いは、結構有名なお話しらしく、『古代史の迷路を歩く』(黒岩重吾)の中では、次のように描かれています。

 

 「だがやはり、疫病、反乱に対して効果がなかったと記述されている。後に大王家の皇祖神となった天照大神を祀ったのに、効果がなかったという、この記述は重要である。勿論、崇神時代に天照大神という神など出来ていないが、それはともかく、皇祖神を祀ったのに効果がなかった、という記述は『日本書紀』の編纂者が、崇神天皇家の正統な王でなかったことを知っていた事実を感じさせる。(下線の部分の意味につてはは、後に本文で触れたいと思います。)」

 「崇神はそこで、神浅茅原(かむあさぢはら)に行って、八十万(やそよろづ)の神を集めて占った。この時、有名な倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめのみこと)が神憑りになり、大物主神となって、自分を祀れ、と宣託した。崇神はいわれるままに大物主を祀ったが、それでも効果がない。そこで崇神は、何故効果がないのか、どうか夢で教えてほしい、と祈った。すると夢の中で一人の貴人が現れ、自ら大物主と称して次のように告げた。」

 「『(前略)若し吾が児(こ)大田田根子(おおたたねこ)を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たひら)ぎなむ(後略)』」

 

 こうして、崇神天皇大田田根子を探し当て、この人を司祭者として大物主を祀ったところ世の中は平定した、というのです。

 「蛇であり、火であり、水でもあった・・・古代人の理想神」の大物主神倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)との間で繰り広げられたお話は神話の域を出ない、と思うのですが、先の下線部にあるように、ここから、重要な史実を探ろうとする黒岩重吾の洞察力には、敬服するしかありません。

 

 

 大神神社(おおみわじんじゃ)

 山の辺の道の道筋は、狭井神社(さいじんじゃ)を過ぎた後、木々が覆う砂利道の参道となり、大神神社へと導きます。

 この参道は、三輪山の裾野伝いに南へと向かう道。やがて、大物主神をお祀りする、大神神社の北側面に至ります。

 

大神神社の北側面に達した山の辺の道。

 左手には、新しい階段が整備され、その奥に神社拝殿の大屋根が覗いています。私たちは、石段を利用して、境内の中心部へと向かいます。

 

大神神社の中心部と拝殿。

 

 原初の神祀り

 石段を上った先は、大神神社の中心部。正面には、立派な拝殿が構えています。

 そして、拝殿脇には、新しい木製の説明板。そこに書かれた内容を、少しだけ紹介したいと思います。

 

 「遠い神代の昔、大己貴神大国主神)が自らの・・・和魂(にぎたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、御神体三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている、我国最古の神社であります。」

 「大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神を”おおみわ”と申し上げるように、神様の中の大神様として尊崇され・・・」

 

 普通、”大神神社”は”おおみわ”とは読めません。この説明書きを読んで初めて、理解することができました。

 

大神神社拝殿前の説明板。

 

 本来の王

 さて、冒頭で紹介した、黒岩重吾の洞察力。倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の神託を受け、ようやく、世の中が平定したことについて、作者は、『古代史浪漫紀行』の中で、次のように記しています。

 

 「この説話を読むと、初期大和王権というのは、明らかに祭政一致の国であったことがはっきり出ていることです。初期大和王権邪馬台国の性格を受け継いでいることがわかります。」

 「・・・いちばん大事なのは、倭迹迹日百襲姫は祭り事によって、崇神という王に対して命令する力があった、ということです。

 

 このようなことから、当時の王といえども、巫女的性格を持つ人の上に立つことはなかった。つまり、冒頭で引用した文中、「崇神天皇家の正統な王でなかったことを知っていた事実を感じさせる。」という表現が、導き出されてくるのです。

 

 古代の歴史の中心地、三輪山の麓の道を歩きつつ、また、幾つかの神社を辿り歩いて日本の国の原点を体感することになりました。

 

 三輪素麵

 山の辺の道の道筋は、三輪神社の拝殿横を南へと進むのですが、時間は丁度お昼時。私たちは、神社正面に延びている、参道を下り歩いて、正面鳥居へと向かいます。

 

※鳥居を出たすぐ左、鳥居に向かって右にある食堂。

 鳥居を過ぎた左には、何軒かのお店が並んでいます。店頭に置かれたメニューには、有名な三輪素麺の写真です。三輪に来て、三輪素麺を逃しては、”たたり”があるかも知れないと、美味しい素麺をいただくことになりました。

 

三輪素麺と柿の葉寿司。

 

*1:崇神天皇は第十代天皇ですが、史実はこの天皇から始まると考えるのが通例のようです。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]17・・・大神神社へ

 二上山

 

 古代大和の王権と深くかかわる桧原神社の境内からは、その真西の方向に二上山ふたかみやま、または、にじょうざん)が望めます。右側のひと際高い雄岳の横に、慎ましく寄り添う雌岳の姿が、どことなく愛しさを感じさせる容姿です。

 古くから、日が沈む二上山は、黄泉の国への入口と崇められてきましたが、桧原神社がこの地に置かれた3~4世紀の時代には、まだそうした信仰は無かったのかも知れません。

 時は下って、7世紀の後半に、天武天皇の皇子である大津皇子(おおつのみこ)は、権力争いの煽りを受けて自害に追い込まれてしまいます。そして、その墓が二上山の雄岳の上に築かれることになるのです。おそらく、そのような出来事がさらに人々の心を打って、二上山の信仰が深まっていったのだと思います。

 

 

※桧原神社から西を見ると、正面奥に見事な二上山が望めます。

 

 大津皇子(おおつのみこ)

 桧原神社の境内からは、見事な二上山の姿が望めます。そして境内の入口近くには、「二上山」と記された説明板。ここで、その内容を紹介させて頂きます。

 

 「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子天武天皇の皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯皇女(おおくのひめみこ)うたった『現身(うつせみ)の人なる吾や明日よりは二上山を弟背(いもせ*1)と吾が見む』という有名な歌が万葉集にのこっています。」

 

 茶店

 桧原神社の正面からしめ縄下をくぐり抜け、石段を下りきると、そこはもう、山の辺の道。次に向かう大神神社は、左手の方向です。

 ただ、山の辺の道を横切ると、その少し先には、ちょっとお洒落な茶店があるようです。私たちは、そこで一休み。暖かいお茶を頂いて、次の目的地へと向かいます。

 

 森の小径

 道はこの先、森の中の小径のようなところを通ります。三輪山の麓近くを巡るように古代の道は続いています。

 

※森の小径のようなところを通ります。

 

 途中、山水が注ぎ出る、石組で囲まれた一角がありました。そこからは、谷水が流れ下っているようで、石清水とでも言えるような、せせらぎの姿が見られます。

 傍には、万葉の石碑も置かれていて、由緒ある場所のようにも思えます。

 

※石清水が流れる一角。

 

 玄賓庵(げんぴあん)

 しばらくすると、一旦、森の中から谷あいの空間に出てきます。そしてそこには、玄賓庵と名付けられたお寺のような建物がありました。

 資料によると、「もとは桧原谷にあって、山岳仏教の寺として栄えたが荒廃し、・・・明治維新神仏分離で現在地に移っている。」との説明が。

 私たちは、山門前で手を合わせ、先の道を急ぎます。

 

※玄賓庵前の山の辺の道と玄賓庵

 

 石畳

 左右から小高い尾根が突き出すような、谷間に近い空間を進みます。道は、石畳が整備され、良い雰囲気のところです。

 

※谷間のような空間に、石畳が敷かれています。

 

 ジグザグにつながる道は、幅の狭い、古くからの小径です。限られた空間地は、畑や果樹園などに利用され、のどかな空気が流れています。

 

※狭い小径を進む山の辺の道。

 

 狭井神社(さいじんじゃ)へ

 道は再び、森の中に入ります。ただ、そこは、鬱蒼とした山の中というよりも、緩やかに上り下りを繰り返す、庭園の林の中の感覚です。

 石畳も美しく整備され、手入れが行き届いた園路という印象です。

 

※再び木々が茂る森の中に進みます。

 石畳の道筋は、やがて、急勾配の石段に変わります。その先は、明るい日差しが降り注ぎ、小高い丘の方へと向かうような道筋です。

 

※急勾配の石段を上り進みます。

 

 狭井神社(さいじんじゃ)

 石段を上り進むと、その先の左側には、立派な庭園や鳥居などが見えました。三輪山の麓の森の一角に、煌びやかで厳かな空間が佇みます。

 これが、狭井神社と呼ばれる神社。資料によると、大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社だということで、大神神社と一体的に崇められてきたようです。

 

※山の辺の道から左手に広がる狭井神社の境内。

 

 狭井神社は、垂仁天皇時代(第十代崇神天皇の次の天皇)に創祀された神社だそうで、大神神社と同様に、古代大和の王権の象徴的な社のひとつと言えるでしょう。

 境内を眺めながら進んで行くと、自然と、狭井神社の鳥居前に到着します。辺りには、たくさんの参拝客の姿がありました。私たちは、ここでも鳥居の外から頭を下げて、大神神社へと向かいます。

 

狭井神社正面鳥居前の様子。

 

 大神神社(おおみわじんじゃ)

 狭井神社を後にして、大神神社に向かう道は、大きな神社の境内の参道のような道筋です。整えられた砂利道が心地よく、木々が陽の光を和らげます。

 簡易な灯籠が参道伝いに並べられ、ところどころに小さな祠も点在します。神聖な空気に包まれた、古代の社が鎮座する木陰の森を進みます。

 

狭井神社から大神神社へと向かう参道。

 

*1:”いろせ”が正しいのかも知れません。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]16・・・桧原神社へ

 箸墓古墳(はしはかこふん)

 

 私たちが今歩く山の辺の道の道筋は、奈良の盆地の東隅、笠置山地の裾野に連なる山際を通っています。この道は、やや高台にあり、時折、平地を見下ろしながら、南へと向かいます。纏向(まきむく)の辺りでは、三輪山が左手(東)に、右手が大和盆地という具合。そして、その盆地が広がるところに、有名な箸墓古墳が位置しています。

 

※ピンクの線が山の辺の道。オレンジ枠が箸墓古墳。黄色の区画は纏向遺跡。山の辺の道美化推進協議会の資料によります。

 

 この箸墓古墳桜井市纏向学究センターの資料には、次のように書かれています。

 「纏向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳」「この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひものそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定され、立ち入りが制限されています」

 また、作家の黒岩重吾氏は、『古代浪漫紀行』の中で、

 「初期大和王権を考える場合に大切なのは、纏向(まきむく)遺跡の中でいちばん大きな箸墓(はしはか)古墳ですね。これは倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を葬ったとされる古墳ですが、・・・」とし、「箸墓古墳の主の倭迹迹日百襲姫は、伝承として明らかに神祇の女性であると考えていいでしょう。神様と非常に縁のある女性。そうするとまず考えられるのは、卑弥呼であり、台与(とよ((卑弥呼の姻戚者で後継者だったと言われています。)))であるわけですね。

 つまり、もしかして、纏向の地に今もその姿を誇示している箸墓古墳それこそが、卑弥呼の墓かも知れない、という説も成り立つというのです。(実際、そのような話はよく耳にしますし、まことしやかに紹介されている資料も見かけます。ただ、黒岩重吾氏は、台与の方が可能性はある、との考えだと思います。)

 古代のロマンが色濃く漂う纏向の遺跡から、道は、神聖な神が眠る歴史の社に向かいます。

 

 

 三気大神神社(さんきおおみわじんじゃ)

 三輪山山麓の道を辿って行くと、よく整備された緩やかな斜面が広がります。その先は、纏向の集落も見え、清々しい空気が流れています。

 

三輪山の裾野を周って桧原神社に向かいます。

 

 しばらくすると、杉木立の道へと様子が変わり、その先に小さな神社がありました。木の板で囲まれた、ちょっと不思議な神社です。「三気三大神神社」の表示板はありますが、社などは塀の奥。板塀伝いに周り込み、何とか参拝することができました。

 

※三気大神神社

 

 桧原神社(ひばらじんじゃ)へ

 三気大神神社を過ぎた後、間もなく左手に、広々とした神社の境内地が現れます。案内表示を確認すると、ここが次の目標地点、桧原神社になるようです。大きな建物などは無く、あっさりとした印象の境内です。

 

※桧原神社の北側入口。

 

 境内を左に見ながら正面にまわってみると、立派なしめ縄が架けられた門柱がありました。私たちは、しめ縄の下を通り抜け、その奥にある、参拝所に進みます。

 

※桧原神社の正面。

 

 桧原神社

 桧原神社は、先ほども少し触れた通り、本殿などの建物はありません。参拝は、山裾に建てられた、三ツ鳥居前で行います。

 おそらく、鳥居背後の山そのものが御神体なのでしょう。これこそが、自然崇拝の原点のようにも思えます。 

 

※桧原神社の参拝所。正面奥に三ツ鳥居が置かれています。

 

 鳥居の様子がわかる写真をご覧いただきたいと思います。中央と左右隣りに、3つの鳥居が配されていて、実に厳かな雰囲気が宿っています。

 そして、鳥居前の御由緒書には、次のような説明がありました。

 

 「第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた『天照大御神』を皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託しここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのが始まりです。その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡幸され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創祀と云われる。」

 

※桧原神社正面。

 このように、桧原神社は、伊勢神宮の原点とも言われています。境内に置かれている、もう一つの説明書きには、「この地を今に『元伊勢』と呼んでいます。」との記載もありました。

 

 日本書紀

 桧原神社の由緒については、黒岩重吾の『古代史の迷路を歩く』の作品で、かなり詳しい考察がなされています。この辺り、『日本書紀』の記述では、神話の域を超えていないようですが、黒岩重吾の作品では、史実との重なりを鋭く読み解いているのです。

 少しくどくはなりますが、参考までに、その部分を紹介させて頂きます。

 

 「さて『日本書紀』の記述によると、疫病、反乱などが起こったので、崇神天照大神、倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を大殿に祀った。だが二神が共に住めないというので、豊鍬入姫命を司祭者にして、天照大神を、倭の笠縫邑に祀り、倭大国魂の司祭者を渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)にした。」

 

 この記述は、先の桧原神社の説明と矛盾などはありません。確かに、豊鍬入姫命を司祭者にして、天照大神を、この桧原神社にお祀りしたということです。

 そして、続いて、

 

 「だが、やはり疫病反乱に対して効果がなかったと記述されている。後に大王家の皇祖神となった天照大神を祀ったのに、効果がなかったという、この記述は重要である。・・・皇祖神を祀ったのに効果がなかった、という記述は『日本書紀』の編纂者が、崇神天皇家の正統な王ではなかったことを知っていた事実を感じさせる。」

 

 と綴りつないでいます。つまり、8世紀の時代に編纂された『日本書紀』は、3世紀の時代の史実を伝承(或いは、編纂時の権力者の都合)等に基づいて記述しているため、そこは慎重に読み解く必要がある。そして、この天照大神の記述は、崇神天皇に関連した巫女(邪馬台国卑弥呼のような)こそが、権力の中心ではなかったか、と推測されているのです。

 

 このあたり、次に向かう大神神社との関連もあり、興味深いところです。次回のブログで、もう少し、触れてみたいと思います。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]15・・・纏向の地へ

 桜井市

 

 関西の方にとっては、桜井市という都市の名前は、おそらくご存知だと思います。ただ、それ程の強い印象はなく、奈良盆地の南に位置する小さな街、程度の認識なのかも知れません。

 この桜井市、実は、古代大和の王権の中心地だったところです。市内には、数多くの史跡などが残っていて、今も調査は続いています。近年の発掘調査では、纏向遺跡(まきむくいせき)の実体が明らかにされつつありますし、王権初期の巫女である、倭迹迹日百襲姫(やまとととひものそひめ)の陵とも伝えられる箸墓古墳(はしはかこふん)も有名です。さらには、聖なる山、三輪山を中心にして大神神社(おおみわじんじゃ)や数々の歴史ある社が鎮座する他、長谷寺や阿部文珠院など、由緒ある寺院なども点在します。

 古代の歴史の宝庫とも言える都市。桜井市は、何度でも訪れたくなるような、不思議な魅力を隠しています。

 

 

 原風景

 景行天皇陵を過ぎた後、古代の道は、民家の少ない、丘陵地を通ります。この辺り、至る所に古墳などが散らばっているようです。そこここに、小山や塚が点在し、その中をすり抜けるようにして、南へと向かいます。

 

※標識は次の目標地、桧原神社まで2.4kmを示しています。

 

 やがて進行方向に、ゆったりとした稜線の神聖な山が現れます。この山が三輪山なのか。確定的ではないものの、古代の人が畏れ敬う独特の姿を呈しています。

 山に迫る丘陵地には、木々が茂り、その周囲にはのどかな農地が広がります。これぞ日本の原風景、と言えるような景色です。

 

三輪山を望む風景。

 

 石碑

 足もとを見てみると、砂利道の片隅には、ひとつの石碑が置かれています。「額田王」と記されている万葉歌碑。大和王権の時代からは随分新しい時代です。

 「うま酒三輪の山・・・」と刻まれたこの石碑、額田王もこの風景を見て、「大和は国のまほろば」と感慨深くしたためた、日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを、偲ばれていたのかも知れません。

 

※道は三輪山に向けて進みます。

 

 桜井市

 道は、この辺りから、天理市を後にして、桜井市の領域に入ります。平坦なところから、小高い丘へ。変化に富んだ道筋を進みます。

 

※小高い丘の切通しのような道を進みます。

 

 やがて、ひとつの集落が現れて、標識も、「ここは桜井市」との表示です。この角を左に向かうと、大兵主神社(ひょうずじんじゃ)があるようですが、山の辺の道は真っ直ぐです。目標となる桧原(ひばら)神社まで、1.6kmを示しています。

 

桜井市の最初の集落。

 

 纏向(まきむく)の地

 この集落、地名は桜井市穴師(あなし)と呼ぶようです。地名のいわれは分かりませんが、この辺り一帯は、纏向(あるいは巻向。”まきむく”と読みます)遺跡の範囲内。古代大和の王権が都としていたところです。

 道沿いは、少しの間民家が途切れ、再び、穴師の集落の中心地へと向かいます。

 

※かつては大和王権の中心地だったと思われる辺り。

 

 ここで少し、纏向遺跡のことについて、触れたいと思います。

 桜井市纏向学究センターのホームページを見てみると、この遺跡のことについて、次のように書かれています。

 「桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纏向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国にも著名な遺跡です。」

 「・・・日本最初の『都市』、あるいは初期ヤマト政権最初の『都宮』とも目されています。」

 

 ここが、邪馬台国であったのか、或いは、九州にあった邪馬台国がこの地に東遷したのかどうか、古代の歴史の真相は知る由もありません。ただ、この纏向(まきむく)の地に、”ヤマト”の王権が君臨していたということは、間違いはないようです。

 時はおそらく、3世紀の後半辺りのことでしょう。日本の黎明期とも言える時代の中心地。不思議な空気を感じながら、古代の道を歩きます。

 

桜井市穴師の集落の中心地。

 行く手は次第に、勾配を増す坂道に。道沿いは、次第に民家も遠ざかり、寂しい山あいの景色に変わります。

 古代の道は、三輪山の裾野をめぐる、緑濃いふところに吸い込まれるようにして、森の方へと続いています。

 

※穴師集落の中心部。道は三輪山の裾野へと向かっています。

 

 三輪山麓の道

 坂道を上って行くと、谷川のように流れ下る小さな川を渡ります。この川は、巻向川と呼ばれていて、三輪山の奥地から、大和盆地に注いでいます。

 古代纏向の人々は、この川の流れを利用して、営みをつないでいたのでしょう。

 やがて、巻向川に沿うように、三輪山の奥へと続く舗装道路と、鋭角に右に折れ、山裾をめぐるように延びていく、裾野の道に分かれます。

 その分岐点のところには、「←笠山荒神」「→桧原神社」と記された標識です。

 山の辺の道の道筋は、間違いなく、桧原神社の方向です。私たちは、鋭角に方向を変え、三輪山の裾野を辿ります。

 

※鋭角に道筋を変え、三輪山の裾野を巡る山道に入ります。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]14・・・景行天皇陵へ

 大和の王権

 

 古代の歴史を連綿と描き続けた作家の黒岩重吾氏は、『白鳥の王子 ヤマトタケル』の長編で、主人公の倭男具那(やまとのおぐな=倭建・やまとたける、或いは日本武尊)が伝え聞いた大和王権のことについて、次のように綴っています。

 

 「男具那の父のオシロワケ王(景行天皇*1)が王になるまで、三輪山麓の王達にはイリの名がついていた。新しい西方の勢力が大和に入りこんで来た、ということを示すために、イリの名がついた、と男具那は聞いていた。女王を盟主とする邪馬台国(やまたいこく)という国だった。」

 「九州の邪馬台国の東遷、三輪山麓におけるイリ王朝の始まりは、男具那にとっては遥か昔のことだった。・・・約百年前にヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)*2を王とする初期大和政権が三輪山麓に宮を造った。モモソヒメは邪馬台国の女王・卑弥呼の親族、台与(とよ)の妹ともいわれている。・・・本当に妹であったかどうかは確かめることはできない。史実は彼方の霧の中に消えかかっているのだ。

 「ただ、三輪山麓に生まれたイリ王朝の最初の王が、女王であったことだけは間違いない。八世紀に出来た『日本書紀』や『古事記』の編纂者はそのことを、すでに微かな伝承としてしか知らなかった。彼らはためらったあげく、モモソヒメと呼ばれた女王を抹殺し、イリ王朝の初代王を、ミマキイリビコイ二ヱ王(崇神*3)としてしまった。」

 

 このように、遥か昔の三世紀、三輪山山麓に始まった大和の王権。実在の天皇系譜の始まりとも言われています。邪馬台国の東遷のことについては、見解が分かれるところではありますが、この地で王権による統治の形が始まったことについては、概ね、事実なのだと思います。

 

 この先、山の辺の道は、大和王権の中心地、数々の史跡が残る纏向(まきむく)と呼ばれる地域に向かいます。

 

 

 崇神天皇

 前日、崇神天皇陵の直前で、行程を終えた私たち。この日は、宿泊地からJR桜井線(万葉まほろば線)の柳本駅に舞い戻り、続きの道を歩きます。

 山の辺の道の歩き旅も、いよいよ最終日。目指す先は、桜井市にある初瀬川の右岸の地。河内の国と水路で結ばれ、仏教が伝わった、古代の道の起点とされるところです。

 

 駅を出て、緩やかな坂道を上って行くと、右前方には、こんもりとした丘陵と整然と整えられた堰堤が近づきます。

 よく見ると、西方向が角ばっていて、反対の山側は曲線状。これこそ、大和の王権の初代の王である、崇神天皇の陵(みささぎ)です。

 

※壮大な崇神天皇陵。

 

 道は、この先で、前日の区切りの場所に到着します。そして、そこから、崇神天皇陵の後円部分の方向へ。

 途中には、柳本のひとつの大きな集落が控えています。民家が連なる坂道を、すり抜けるように進みます。

 

天理市柳本町北別所の集落。

 

 集落を抜け出ると、その先が崇神天皇陵。円形の小高い丘が目前に広がります。道は、この陵(みささぎ)を、周り込むようにして、南へと向かっています。

 

崇神天皇陵の後円部分。

 櫛山古墳

 古墳の周囲は、石畳で美しく整えられて、歩きやすい道筋です。この辺り、右には崇神天皇陵。そして左には、櫛山(くしやま)古墳が位置しています。

 櫛山古墳は双方中円墳と言うらしく、特異な形をしています。誰の墓かは分かりませんが、もしかして、崇神の時代よりさらに遡るのかも知れません。

 

崇神天皇陵と櫛山古墳の間を、山の辺の道の石畳が通っています。

 

 丘陵地の農村

 木々が覆う古墳のすき間を辿って行くと、小さな分岐点を迎えます。左に向かうと、龍王山。ここから4kmの距離を示しています。

 山の辺の道は直進で、この先、景行天皇陵まで1.4kmの表示です。

 

※木々が覆う丘陵地の道。

 

 道は、農地や果樹園が入り混じる地域に入ります。途中、石碑の横に設けられた案内板には、「大和の集落」と記された、簡単な説明書きがありました。

 

 「青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。集落は奈良時代の条里制にもとづいて、配置されてきました。この山の辺の道沿いの古い集落も条里制に対応しています。」とのこと。

 

※農地や果樹園を通ります。

 

 道沿いは、小さな農地が点在し、果樹なども見られます。丘陵地の緩やかな斜面に広がる景色は、いかにも長閑さを感じます。

 

※農地と農家が点在する中、古代の道は南へと続きます。

 

 景行天皇

 やがて正面に、こんもりとした小さな山が現れます。そして、道端のところには、「渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳」と表示された説明板。そこには、そこそこ詳しい説明書きがありました。

 

 「渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は『景行天皇陵』として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む周辺の古墳3基が陪塚に指定されています。」

 

 景行天皇は、崇神天皇から2代下った天皇で、冒頭でも少し触れているように、倭建(日本武尊)の父にあたる方だと言われています。大和に置かれた古代の王権。その源流の一人の王が、この陵(みささぎ)に眠っているのです。 

 

景行天皇陵と説明板。

 

 道は、景行天皇陵の東側を周り込み、桜井市への境界の地へと向かいます。

 

景行天皇陵の東側、後円部分を周り込むように進みます。

 

*1:第12代天皇

*2:倭迹迹日百襲姫のことについては、いずれどこかでもう一度触れてみたいと思います。

*3:一般には第10代天皇

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]13・・・崇神天皇陵へ

 柳本

 

 山の辺の道の南コースは、この先の柳本辺りが中間点。そこには、大和王権の初代の王、崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)が残っています。付近には、数々の立派な古墳が築かれていて、古代の権力の重要な土地だったことが分かります。

 この辺り、すぐ西側には、JR桜井線(別名、万葉まほろば線)が通っています。最寄りの駅は天理駅から2駅南の柳本駅。この駅の近くにも、美しい容姿を誇る、黒塚古墳が見られます。

 余談ながら、松本清張が、古代飛鳥の石造物の謎に迫ったミステリー『火の路』にも、この辺りの古墳の様子が綴られていますので、少し、紹介したいと思います。

 「櫛山古墳は崇神陵の背後に連なる一連の丘陵上にある。この二つの古墳は南北に小さな丘陵を控え、その背後には急斜面の山が重なり合っている。そこから西にむかって派生する支脈のうち、南方では景行天皇陵があり、また、北の方には継体天皇の皇后手白香(たしらか)皇女の陵がある」

 

 

 念仏寺

 古代の道は、丘陵地を緩やかに下りながら、自然と、念仏寺の墓地の中に入ります。幾柱もの墓石が建ち並ぶ場所ですが、どこか、清々しさも感じます。

 この地に安置された魂は、さぞ穏やかな大和の景色を眺めながら、悠久の時の流れを見届けているのでしょう。

 

※念仏寺の裏斜面に広がる墓地。山の辺の道はその中を通っています。

 墓地の坂を下った先には、念仏寺の山門です。立派な塀と門の奥には、美しく整えられた境内が見えました。私たちは、山門前で手を合わせ、門前から真っ直ぐ延びる古代の道を辿ります。

 

 

※念仏寺の山門。

 

 念仏寺門前の角に置かれた案内表示は、この先、長岳寺まで1.1kmを示しています。

 

※山の辺の路から長岳寺を振り返ります。

 大和神社御旅所(おおやまとじんじゃ・おたびしょ)

 念仏寺を後にして、真っ直ぐ南に向かって行くと、その先に、大和神社の御旅所がありました。

 大和神社の境内は、前回にも触れたように、萱生(かよう)の環濠集落の、西側に位置しています。由緒ある神社であり、御旅所の標柱にも、「最古の御社」と書かれています。

 

大和神社御旅所。

 

 ちなみに、御旅所とは、「神社の祭礼において神様が休息する場所のこと」(ホームメイト・リサーチ)で、神輿などに参加された方ならば、およそのイメージはお持ちだと思います。一般には、神輿を担いで町中を練り歩き、御旅所で休憩して、元の神社に戻るのが、お祭りの行程です。

 

 ポケットパーク

 道は再び、農地の中の丘陵地を横切ります。途中には、農地の中に張り出した、木造の休憩所も置かれています。

 粋な計らいの休憩所。遠方には、生駒の山並みが見渡せます。

 

※道沿いに設けられた木造の休憩スペース。

 

 二上山(ふたかみやま)

 天理市中山町の集落を通過しながら、道は、南へと向かいます。途中、わずかではありますが、西方向に向かった時に、正面の遥か向こうに、二上山の麗しい姿が見えました。

 雄岳(向かって右)と雌岳(向かって左)が、寄り添うように並ぶ山。古代の人は、日が沈む山として、畏敬の念を持ちながら、この山々を崇めていたと言うことです。

 

※道の正面奥に見える高低の見栄を有する山が二上山

 

 柳本町

 丘陵地の農地の道を南に向かうと、その先で、天理市柳本の集落に入ります。そこは、小高い山の裾。雑木林も点在し、道はジグザグに進みます。

 やがて、長岳寺まで0.4kmの表示です。細く続く坂道は、弘法大師開祖とされる、古刹の門前に向かいます。

 

※長岳寺に向かう道。

 

 道はこの後、長岳寺の入口に当たります。ただ、ここでは、古刹へとは向かわずに、境内前で右に折れ、長岳寺の駐車場の方向へ。

 

※道は長岳寺の入口で右折です。

 

 しばらくすると、左には、長岳寺の駐車場へと向かう道。そして、その分岐点を通り過ぎると、道の先は視界が開け、整備された駐車場やお店などが見えました。

 この辺り、霊園などが点在する他、ハイキングで訪れる人も多いのか、美しく整った感じのところです。道案内や山の辺の道の説明板など、観光への対応にもぬかりなどはありません。

 

 一区切り

 古代の道は、この先、角地を左折して、崇神天皇陵へと向かうのですが、南コースの中間点。ここで、この日の歩き旅を終了です。

 私たちは、崇神天皇陵とは反対の右方向へと進路をとって、およそ1キロ西にある、JR柳本駅へと向かいます。

 

崇神天皇陵へと向かい道。

 

 この日の昼近く、天理の駅から歩き始めて3時間。石上神宮から夜都伎神社を経由して、萱生の環濠集落へ。そして、目前には、崇神天皇陵が迫ります。

 この先の行程は、翌日に残しておいて、私たちは、宿泊所へと向かいます。

 

 途中、左奥には、鬱蒼と木々が茂る小高い丘が見えました。おそらくそれが、崇神天皇陵なのでしょう。

 古代史に卓越した慧眼を持つ、作家の黒岩重吾氏が、『古代浪漫紀行』の中において、「『日本書紀』では、・・・崇神天皇が初めて日本の国を治めた天皇であると記しています。」という一文は、厳然とした歴史の重みを伝えています。